ふなむしのページ
大阪港築港の歴史を辿る街歩きツアー(主催:まいまい京都)に参加しました。ツアーのタイトルは「世界に類なき築港プロジェクト!商都を築いた巨大インフラ大解剖」で、副題は「~港区を持ち上げた大高低差!?弧を描く赤レンガ倉庫群、幻の臨港線を追え~」です。
※ガイドさんの案内で街を巡りましたが、聞き間違い、記憶間違い、で以下の記述内容に誤りがあるかもしれません。悪しからず。
このツアーの出発は大阪メトロ中央線九条駅です。九条駅から南東に伸びるナインモール九条商店街は、此花区の伝法から心斎橋のアメリカ村付近まで繋がる九条新道の一部です。明治から戦前にかけての九条は「西の心斎橋」と呼ばれるほど賑わいがありました。
ナインモール九条商店街 |
1903年(明治36年)花園橋(現在の九条新道交叉点)~築港桟橋(現在の大阪港/天保山)5.1kmに大阪初の市電築港線が開業しました。屋根にも上がれる2階建ての車両もありました。2階建ての車両は車両の端に細長いパンタグラフが斜め上に伸びていて、それが釣り竿に見えたことから「魚釣り電車」と呼ばれていました。
九条新道交叉点 | 大阪市電創業の地 |
九条新道交叉点からみなと通りを西に進むと大阪ドームが見えます。
大阪ドーム(京セラドーム大阪) |
大阪市電は地下鉄に代わり2018年(平成30年)に民営化されて大阪メトロになりました。大阪ドームの手前に大阪メトロの本社が入るビルがあります。
大阪メトロ(大阪市高速電気軌道)の本社 |
みなと通りを境に北西側は大きな中央分離帯を持つ道路(境川通)、南東側は公園として使われている通りがあります。
ここには境川運河がありました。1902年(明治35年)に民間が開削した運河で安治川と尻無川を結んでいました。それまで畑として使われていた干拓地は、運河が開通した後その両側に工場が建って行きました。
境川運河の跡(北西側) |
大阪環状線は城東線(天王寺~大阪)、西成線(大阪~西九条)、関西本線貨物線と新線(天王寺~西九条)を繋げて1964年(昭和39年)に乗り換えなしの環状運転が実現できました。大正~弁天町区間は貨物線の一部を利用していて、その痕跡として貨物線の高架の上に環状線の高架を重ねた2層式の高架を見ることができます。
2層式の高架 |
弁天町の手前には内・外回り線の高低差があり、外回り線が貨物線(大阪臨港線)を跨いでいたことが分かります。大阪臨港線は1928年(昭和3年)に完成し天保山まで伸びていましたが1986年(昭和61年)に廃止されました。
環状線 内外回りの高低差 |
この一帯は干拓地ですが、みなと通りは車道が高く歩道が低い高低差を目視でも感じます。その周辺にはもっと急な坂道もあります。
車道と歩道の高低差 | 急な坂道 |
大阪市港区は戦前は大阪市で最も人口の多い区でしたが1945年(昭和20年)の大阪大空襲で全域が焼払われ、人口は1940年(昭和15年)の322,231人から1945年(昭和20年)11月の8,672人に急減しました。
さらに地盤沈下による高潮の被害にも会い、その対策として港区の土地に高さ2mの土を盛る工事が実施されました。この工事は1946年(昭和21年)から始まり1992年(平成4年)に終了しました。当初の計画通りの高さまで盛土をした場所と少し控えた場所との間で高低差が生まれています。
大阪メトロで弁天町駅~大阪港駅を移動しました。
安治川はかつては淀川の本流で、淀川が運ぶ土砂が堆積するため浚渫が必要でした。1831年(天保2年)から約2年間、「天保の大川浚」と呼ばれる浚渫工事が行われました。その時に出た土砂を積み上げられた築山がその年号から天保山と呼ばれるようになりました。
当時の天保山は今より遥かに大きく高い山でしたが、その後山は崩されて「日本で一番低い山」となりました。現在は二番目になったそうです。
天保山公園 | 天保山山頂 |
1947年(昭和22年)に「大阪港修築10ヶ年工事」が開始され、大阪港(安治川)に大型船が入港できるように水深を深くするだけでなく、陸地を削って港域を広げる工事が実施されました。この工事で出た土砂が⑤の盛土に使用されました。上図の⑧のエリアが浚渫で広くなった場所です。
天保山大橋 北側が広く・深く浚渫された |
現在クラシックカーの博物館として使われている赤レンガ倉庫は1923年(大正12年)に港湾倉庫として建設されました。
港大橋 | 港大橋と赤レンガ倉庫 |
倉庫の間と両脇には大阪臨港線の線路が敷かれていました。赤レンガ倉庫は線路に沿って湾曲して建設されました。
赤レンガ倉庫 | 線路に沿って湾曲した倉庫 |
商船三井築港ビルは旧大阪商船ビルとして1933年(昭和8年)に建てられ大阪商船の待合所として使われていました。天満屋ビルは1935年(昭和10年)に建てられ、海運業者と荷送り人の取次業をする天満屋の事務所兼住宅として使用されました。天満屋ビルにはレストランが入居していてこの建物の中で食事が取れます。
天満屋ビル | 商船三井築港ビル |
2棟のビルは3階建として建築されましたが、港区の盛土工事⑤で1階部分が半地下になりました。
天満屋ビルの半地下 |
大阪港中央突堤基部と咲洲の間を大阪メトロと道路の海底トンネルが繋いでいます。
大阪港咲洲トンネル 中央突堤基部と咲洲を繋ぐ |
中央突堤先端 |
中央突堤から見えるのは戦後に拡張・発展してきた大阪港です。
雲の間から漏れた日差し |
江戸時代まで京都への物流拠点として発展してきた大阪港は大型船が入港できない不利な立地条件から、1868年(慶応3年)に開港した神戸港に遅れを取り、外国人貿易商らも続々と神戸へ転出してしまい、外国船が入港しない港になりました。それを挽回すべく1897年(明治30年)に市の全体予算の30年分の巨費を投じて政府ではなく大阪市営のプロジェクトとして大規模な築港工事を実現しました。
第2次世界大戦後は大阪大空襲で全域が焼払われた港区を、安治川の浚渫土を利用して広大な範囲を盛土してかさ上げし、高潮などの水害に強い街づくりを行いました。安治川の浚渫により港内が広くなり水深も深くなったので大型船が入港できるようになりました。