パラマリボのサンバ   

    飛騨準一郎


ブラジルのサンバを御存知の方は多いに違いないだろうが、パラマリボなどと云う地名は一体何処に存在するのだろうか?と首をかしげる方も多いはずだ。ここが、南米東岸に位置するスリナムと云う国の首都だと即答できた方は、よほどの地理マニアか受験生、そうでなければきっと船乗りに違いない。

ボーキサイトの産地としても知られるこの国は、かつてのギアナの一部だ。最近までは南米最後の植民地として、西から順に、英・蘭・仏領に分割されていた。仏領ギアナなど未だにフレンチ・ギアナとしてチャートの上にその名を残しているが、英領ギアナは1966年に、そして蘭領ギアナは1975年にそれぞれ独立し、ガイアナ、スリナムとなった。

この元オランダ領であったスリナムの地には、最初のヨーロッパ人としてスペイン人が来たものの、16〜17世紀の英・蘭領有権争いの末、1667年には、それまでニューアムステルダムと呼ばれていたニューヨークと交換されて、完全なるオランダ領となったいきさつがある。

そのようなわけでスリナムの住民はかつてこの地の開墾用労働力にと、オランダ人が東洋から強制的に連れてきたインドネシア人に、ニグロ、インディオ、そしてこれらの混血から構成されているわけだ。なるほど荷役人夫達や街を歩く人々の顔つきと体型は、他の中南米地域の人々のそれらとは違うようだ。

さて、本船あんです丸はこのパラマリボに行くチャンスに、この一年の間に二度も恵まれた訳だが、ここの港はアプローするのも大変ならば、再び大西洋の青い海原へ乗り出して行くのも大変なところだった。乗し上げる船も少なくはなく、キャプテン・キラーと言う人もいるほど船長にとっては頭の痛い港だ。なにしろこの港、パイロット・ステーションから22マイル遡るリバー・ポートであると去うのに、BA版チャートNo.99を見ても水深はわずか5メートル程しかないのである。どんなに優秀なチーフ・メイトが船隊コンディションを計算しても5メートル数10センチの喫水よりも船体を浮上させることなど不可能なのに、河口近くなど4メートル程の水深しか記されていないのだ。海図記載の水深は略最低低潮面、つまり基本水準面からの測深であるから当然のごとく低潮時の航行は不可能であり、最高潮にその潮高を2メートルばかり加えたとしてもやっとギリギリの数字がでてくるというわけだ。しかもそれはあくまでも風潮等の外力の影響を考えずに、船体がアップ・ライトの状態を維持し続けたと仮定した上での、最高潮時のキールと河底との隙を数字のうえだけで述べたものなのだから、一体どうやってここを航走しろというのだろうか?。

しかし実際には一万数千総トン・クラスの船が往来しているのであるから、ミルク・コーヒー色をした泥水から抜け出られなくなった船は、きっと新造以来不連続きの悪霊に取り付かれた船に違いない。パイロット日く、「前の船がプロペラカレントで作った轍の上を航走するのです」何のことはない、膨大な量の河底の泥水を主機冷却バイプが吸い上げながら、巨大な鉄の箱が泥の上を航走したわけだ。しかし、そうは言っても、「運を天に任せて…」等とは絶対言わぬのがプロだ。あらゆる手段を尽くして困難に立ち向かう。甲機のサロン士官達は何カ月も前からその対策を練り、そして陸からも頻繁に最新情報を流してくれる。海陸一体となって乗り切るわけだ。そのかいあってか今年の元旦は、ミルク・コーヒー色の水が徐々に青みをさし、夕日の沈む頃には、爽やかな大西洋の潮風に吹かれることができたのだった。

1990年と1991年を同時に過こすことになったパラマリボでの停泊は、クーデターが起こり再び軍事政権になったばかりと云うにもかかわらず、パイロット・ボートの故障とやらで出港が一日遅れたこともあり、本船側はピリピリしながら過こすことになった。

安全圏に入るまでの問、クーデター対策を取る為に全乗組員は上陸を見合せて外部に通ずる開口部は全て閉鎖した上、トランシーバ一携帯の当直士官と操舵手が航海当直変わらぬ当直体制を敷いていたと去うのにこの緊張感が更にあと一日延びることになってしまったからである。

しかしどうもおかしい。クーデターがあったにしては街はやけに平穏すぎるのだ。ブリッジのウイングから双眼鏡で外を警戒する目にはなにも怪しいものは飛び込んでこないばかりか、テレビからもラジオからも楽しそうな歌番組か新大統領の演説を聞く大衆しか映らないのだ。紛争地域には何度か入り込み、危険な匂いもある程度嗅ぎとれるようになっている私にも、平穏な感覚しか感じとることしかできないのだ。エージェントの各氏に言わせても「よくあることさ」と、云った対応ぶりで、まるで危機感など感じられない。つまり、我々の気の回しすぎであったということだ。

しかしながら、念には念を入れてと云うことで、厳重なる当直体制はそのまま継続ということにして、クルーに上陸許可を与えることにした。上陸者名簿に名を記しているクルーに「気を付けて行ってこいよ」と、声をかければ皆一様に、「チーフ、心配しなさんなって。この国の危険度がこの位らい、フィリピンはこの位だぜ」と自分の膝頭と頭の辺りを指していう始末。考えてみれば、我が国が平和すぎる為、我々の感覚が麻痺してしまっているのかもしれない、かくいう私もヨンパー(4〜8時及び16〜20時の当直)明けに街に繰り出してみた。荷役はとうに終わっているし、異常事態ではないことがわかったにもかかわらず船でくすぶっているほど酔狂じゃない。初めての港街はネガの部分もポジの部分も頭に地図が入り込むほど歩き廻らないと気が済まないのだ。最も時間があればの話だが----

かくして上陸した私はタクシーをつかまえて、「ダウン・タウン。それもなるたけ人の集まるところ。大晦日ならそんな所もあるだろう?断っとくが可愛子ちゃんの揃った店ってわけじゃないぜ----」とそれだけ言うと車窓から外へ目を向けた。猛烈な湿気の中で闇を通して広がる景色は、いつか上陸したジャカルタの郊外に似ていた。違っていたのは白いペンキの剥がれかかった、時代ものの洋風造り木造家屋が多いことだった。街中が何となく古ぼけて見えたのは気のせいだったのだろうか。いや恐らく度重なる軍政がこのような街と港にしてしまったのに違いない-----。そんなことを考えているうちに、運ちゃんの声が聞こえ、そして現実に戻った。「あの先に行けばたくさん人がいるよ」と言う彼に15GULDENを払うと、それ以上は車の入り込めない道を人の気配のする方へ歩いていった。(因みにこの時の15GULDENはUS1$だ)

初め遠くで聞こえていた音楽も、やがて闇を通してだんだん大きくなってきた。サンバのリズムが最高潮の音をたてているそこは広場の真ん中で、脹やかに音を作り出す生バンドがいる仮設ステージだった。周囲は歩く隙間もない程の若者達で埋まり、熱気ムンムンと取り巻いていた。ウイスキーをラッパ飲みしているグループもあれば、ラムやらビールを入れた使い捨てコップを手に持ちながらも、器用に音楽に合わせて腰を振っている連中もいる。黒も白も、男も女も皆がサンバのリズムに合わせて踊っているのである。

その明るさと熱気に、先ほどの車窓の景色が不思議と重なった。このコントラストは、外地でしばしば見掛けるものだったのである。サンバのリズムと熱気はいつまでもこの広場から消えなかった。


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