船旅日記(プレジデント・ケネディーに乗って) 大川 敏 |
1980年12月26日
英語で「SLOW BELL」とは船員用語であるらしく、鐘をゆっくり鳴らすように、船足を落として、次の港まで、ゆっくり、ゆっくり時間調整をしながら、航海するといった意味らしい。ちょうど今回私が乗船したA・P・Lのプレジデント・ケネディーは、釜山港を定刻より7時間も早く出航してしまった為、次の寄港地の沖縄の安射新港まで、この「SLOW BELL」をしないと、12月27日中に到着しまい、船荷の関係上、あまりかんばしくなく、やむなくスピードを落して航海することになったらしい。デッキに上がって、水面線に広がる航跡を見れば、いかに本船がスピードダウンしているか、一目瞭然だ。多分本船のサービススピードより2〜3割速度を落して航海しているみたいだ。
私はケネディーに乗船する為、日本を12月26日、大阪発PM13時の釜山行で釜山まで飛んで、釜山のA・P・Lのオフィースで乗船の手続きを終え、PM5時に本船に乗船したのである。釜山には過去何度も船で入港をしているので、その辺は心得たもので、乗船についてのトラブルは一切なかった。
乗船後最初の夕食は、4人テーブルの一角に案内され、船旅仲間もいない(日本人のパッセンジャー)さみしい夕食であった。取り訳、食堂で注文したカキフライのまずさが、旅の出鼻をくじかれた。
12月27日
昨夜は前日の強行軍でたいへん疲れていた為か、キャビンで熟睡、AM6時半起床。本船の朝食タイムは、7時45分からで、ちょっと時間があるので、シャワーを浴びると、朝の眠気がすっ飛んでしまうほどすがすがしい。シャワーを浴びている時に私の船旅が始っていることを実感する。本日は体調もすこぶるよさそうだ。朝食はキャビンスチュワードのベルの合図で始った。私は昨晩と同じテーブルにすわると、そこで思いがけもなく、日本人らしき親子が、テーブルにすわっているのを発見した。確か、日本を出る時には、本船の日本人パッセンジャーは、私だけと聞いていたのに、思ってもみなかった日本人との出会いで、釜山を出航する時から、孤独な船旅と思い込んでいた、私のセンチメンタルな気分を一ぺんに吹き飛ばしてくれた。
船内最初の朝の挨拶が、「GOOD MORNING」じゃなく「おはようございます」というのも、私にとっては、非常にラッキーそのものであった。さて、本船に乗船されておられる方は粟武さんといわれて、A・P・Lの警備の仕事をしておられ、私といっしょで、年末年始の休暇を利用して、息子さんといっしょに船旅をしておられるとのこと。彼らもいわば私と同じたぐいで、「年末年始を海外で………」といった日本脱出組の1人である。粟武さんは横浜から本船に乗っておられ、もう本船のオフィサーやパッセンジャー達とも相当な顔見知りのようだ。
朝食後には、これから何日かの私の船旅仲間になる粟武さんの部屋に招待された。彼らの部屋は、私のシングルキャビンとは大違いで、私の部屋の広さの2倍はある、とてもゆったりとした素晴しい部屋であった。彼らの部屋で船旅談議に花を咲かせていると、ほんとうに今朝数時間前にお会いした人かと錯覚を起こさせるほど、親しくなった。
午後デッキに上がり海を眺めていると、昨晩釜山港での大陸下しの猛烈な北風はおさまり、肌に触れる風も何んとなく快ろよく、我々の船が沖繩の安射新港に向けて、南下していることを証明しているようだ。さて、本船には、10時と3時にティータイムの習慣があり、その中でもとりわけ、3時のティータイムはすこぶるにぎやかだ。全パッセンジャーがラウンジに一同に会し、盛大なおしゃべりタイムが始まるのだ。それにティータイムといっても実のところ、ドリンキングタイムであり、各々のパッセンジャーが手に手にお好みのお酒(ジン、ウイスキー、その他)を持ってバーカウンターに集まり、先ず、殿方連中が奥様の飲み物を作り、それから自分達の飲み物を作る。こんな光景を見ていると、さすがレディーファーストのお国柄か、日本人の殿方ではとうていまね出来そうもないことで、彼らの奥様への献身的なサービスぶりには、ちょっと頭が下がる思いであった。
そうしたパッセンジャーの中でも、さしずめプエル・トリコから来ておられるブラウンさんの奥様と、ロスの郊外に住んでおられるジョンソンさんは、横浜で仕入れた日本酒(福娘)が非常に気に入った御様子で、ラウンジの床にあぐらをかいて座わり、我々にむかって、「SAKI SAKI」と連発し、ほんとうに日本酒が気に入ったようだ。我々も彼らの熱意に負けて「SAKI」を一ぱい御ちそうになる。まさか船内でアメリカの方からこうして酒をいただくことになるとは夢にも思ってなく、これも船旅ならではと自分ながらに驚く。
夕食は一応フルコースになっており、自分の好きなものをチョイスできる様になっているが、そこはそこ貨物船の為、客船みたいな料理の数はない。ただ一品ごとのボリュームでは客船にひけを取らない。肝心の味の方は、もう一歩といったところか、私が今晩夕食で注文した「ビーフステーキ」など、果して出てきたものは、どうみても「ハンバーグステーキ」で、これがとにかく又ばかでかい代物で、半分も食べればうんざりしてしまう。夕食の時間は、本船が停泊中は、PM5時45分、航海中はそれより45分遅れて、PM6時30分からである。
一方ダイニング・スチュワードは2人とも白人で、昨夏乗船した、LYKES・LlNEの様に、キャビン・スチュワードと、ダイニング・スチュワードを兼任していなくて、ダイニング専任のスチュワードである。ここらあたりをみても、やはり船客を大事にするA・P・Lの姿勢がみられ、A・P・Lの客船サービスに対する伝統的な何かを感じ、客船部門を廃止した昨今、わずかに生き残っている貨物船の乗客サービスを少しでも長く、我々船キチにとっては続けてもらいたいと願いたいものだ。
もう一つ本船に乗って驚いたのは、本船のチーフスチュワードが黒人の女性だということである。A・P・Lの船に詳しい粟武氏にそのことをお聞きすると、彼いわく、A・P・Lでも女性船員を外国航路に乗り込ませるには、かなりの時間といろんな問題があったとのこと。今私の知っている限りでは、女性を船員として積極的に乗船させているのは、ソ連船ぐらいだ。しかしながら我が国でも昨今は、商船学校が女性に門戸を開放した由、いずれ近い将来、日本の船にも女性のオフィサーや船長が誕生してくる日もそう遠くないかも……。とそんなことをふと思った。
本船では夕食前のあのティータイムが、メインイベントらしく、夕食後のラウンジは、ほんとうに閑散そのものである。平均年齢が65才〜70才に近い人達と思えば、これもある程度は納得できようか。ある船キチ仲間の一人が、客船を称して、「動く老人ホーム」といったが、まさしく貨物船もそれと同様である。従ってPM9時過ぎたラウンジには人影すら見られず、各々が自分達のキャビンにもどって眠ってしまう。だから夜の遅い私でも話し相手がいなくなってしまうので、彼らに連れられて「早寝、早起き」を励行することになってしまう。おやすみなさい!
12月28日
昨晩時差のアジャストメントをするのをうっかり忘れた為、貴重な朝食を取り忘れる。しかし私の旺盛な食欲は、どうやらいつもの船旅のぺースに慣れてきたのか、私の胃袋は何がしかの食物をさきほどから強要しているみたいである。「泣く子とお腹の虫には勝てない」いや失礼。「泣く子と地頭には勝てない」か。だが私みたいに朝寝起きの悪いものにとっては、心強い味方がある。それは廊下側にそなえ付けられているパントリーだ。そこへ行けば少なくとも、パンとチーズとフルーツはいつでも食べられる。さっそく今朝もそこに出向き、パンとチーズを失敬し、キャビンに持ち帰りパクリとやる。これで私の腹の虫も少しは収ってくれることだろう。
こうしてキャビンで、つまみ食いをしている内に、もう本船は沖繩の安射新港の岸壁に接岸しょうとしていた。
接岸する岸壁の斜め前には、小じんまりしたフェリーターミナルが見える。約10分後本船は安射新港に接岸、さきほどのフェリーターミナルの中には、琉球海運、有村産業、関西汽船といった、沖繩航路を持っている船会社の営業所が並んでおり、1部ずつ各社からパンフレット(時刻表)を拝借する。本船は釜山港を12月26日、PM11時に出港して以来、3日ぶりの陸への上陸だ。今日のスケジュールで行くと、沖繩出港は12月29日の朝の予定で、沖繩でまる一日観光ができそうである。客船の様に寄港地でツアーが組まれていないので、私は何を思ったのか、沖繩中部にある沖繩海洋博記念公園に出かけることにした。しかし安射新港から沖繩海洋博記念公園までは、バスでたっぷり3時間はかかると、フェリーターミナルにいたおやじさんから聞かされると、ちょっと行くか行かぬか迷ったが、結局初志貫徹し、バスで行くことにした。
市内のバスターミナルから名護行きのバスに乗り、終点名護から先は又小さなマイクロバスに乗り替えるのである。バスターミナルから名護までは、沖繩市〈旧コザ市)、嘉手納町を経由して、2時間ほどの道程だ。車窓から眺める嘉手納町は米軍の兵舎が道路の左右にぎっしり立ち並らび、基地の町、沖繩のイメージを私に強烈に焼き尽かせた。現在尚、沖繩県の1/3は米軍に占領されている事実を思い浮かべると、「基地の町」沖繩はまだ戦争が終わってないように思われる。そうした基地の町、嘉手納町を後にして、バスは西部の海岸線を快調に走り統け、やがて古ぼけた名護のバス・ターミナルに到着した。しかしここからが又大変だ。今度は本部行きのバスに乗り変えなければならない。
本部行きのバスを待つ事15分、やってきたバスはこれから先は道幅が狭いのか、それとも乗客が少ないのか、マイクロバス程度の小型バスであった。バスに乗り込んだ乗客も今日がたまたま日曜日のせいか、私を含めても数名足らずで、名護バスターミナルを出発した。この路線バスに乗っても、公園まで直接行っているのではなく、公園に一番近いバス停で下車し、そこから歩くこと3Km先が公園だ。バスを降りて鼻歌を歌いながら、会場に向かう。15分位歩いてやっと会場に到着。
沖繩海洋博記念公園は、山肌を切り開いた高台にあり、眼下に澄き透った紺碧の青い梅と空が広がっている。ちょうど全日空の沖繩キャンペーンのポスターそっくりで、沖繩にはまだまだほんとうの自然が残っていると思う。公園の入場料は年末年始は無料とのことで、さっそく正面のゲートをくぐる。ゲートの正面に沖繩館があり、その左側には海洋文化館、そしてはるか左前方には、末来の海上都市(アクアポリス)が雄々しくそびえ立ち、海洋博会場のスケールの大きさに今更ながらびっくりする。しかし松尾芭蕉の句てばないが、こんなでかい会場も「夏草や、つわものどもの、夢の跡」、会期中のにぎやかさは何処へ行ってしまったのか。何となく静まり返っていて淋しい。沖繩館や海洋文化館等一通り見て歩くも、先も述べた通り会場のでかさに鷲き、3時間位会場内を見て歩いて、帰路に着く。
帰りは幸いにも会場から那覇までの直通バス(PM4時出発)に乗り込む。バスの車中では強烈な睡魔と疲労感に襲われ、那覇までの2時間たっぷり眠むる。国際大通り前で下車し、三越百貨店でちょっとした買物を済ませ、帰船する。
帰船するとラウンジは案の上、誰もいず、私も沖繩観光の思い出を胸に残して、キャビンにもどった。このまま予定通り行けば、明朝9時沖繩安射新港を離れて、高雄に向けて出航予定だ。さようなら沖繩!
12月29日
今朝も8時過ぎに起床し、昨日に引き続き朝食抜きの朝をむかえた。空腹をこらえてデッキに出て散歩する。ここまで来ると潮風も肌に心よく感じる。もう1隻のタグボートが本船を引っぱり出しており、徐々に徐々にこのタグボートに引かれて次港の高雄港に船首を向けていた。このタグボート一隻の馬力が、2500馬力だそうで、QEUが日本に初来航した析、このクラスのタグボートが、右舷、左舷に各2隻づつ付いていたことを思い出すと、いかにQEUがばかでかくて、そして入出港する時にいかにたいへんかが、わかるような気がした。
PM9時ちょうど定刻通り高雄港に向けて出航した。高雄港には30日PM7時の接岸予定。ここから丸1日半の航海である。午前中は日本を出る前に持参した村上龍の「コイン・ロッカー・ベイビー」を読む。船内生活、特にに貨物船の場合は、退屈の連続で、さして急いでしなければならないこと全くなく、いかに日を過ごすかが、本人の大きな課題である。今日こそ「コイン・ロッカー・ベイビー」の上巻を読み終えよう。
PM3時15分から、これはどんな船にも付きものの海上避難訓練が、ラウンジで行なわれた。この訓練も10分〜15分で無事終了した。そして訓練後の4時過きからは、いつものお決まりのコースで、本当に10年1日の如く始まるのである。今日は初めてキャプテン・モンソンさんが、ラウンジに顔を出す。船長はまだ37才だそうで、以外と若い船長だ。このクラスの船の船長としては非常にお若い方で、日本の社会のように年功序列制が完全に浸透している社会と異なり、さすがアメリカの能力主義を感じさせられた。本日のラウンジでのティータイムは、モンソンさんを交えて一層にぎやかであった。
この後の夕食は、肉料理ばかりで、毎日変わりばえしない。そろそろ日本食が食べたくなるころだ。魚の煮付とお新香とごはんが食べたいと思いながら、ダイニングを出る。
12月30日
本日も快晴。3日ぶりにダイニングにて朝食をとる。久々に朝お腹に食べものを入れたせいか、天候同様、体調もすこぶるよし。朝食後は昨日読んだ「コイン・ロッカー・ベイビー」の読書の続きだ。いつもならこんな時間に読書などしてはいないのだが、今回は私1人の船旅、いつもの飲み仲間もいないので、「酒」ということばが出て来ず、自分ながらも、この変身ぶりには当惑してしまいそうだ。アルコールなしの生活も慣れてしまえば、実に健康的でいいかもしれない。本船は沖繩から更に南下し、12月31日、午後7時接岸予定。只今船速12ノット、スローベルをしながら、高雄に航海を続けている。
午後からはブリッジ・ツアーが開催された。チーフ・オフィサーのカルパックさんの案内で、船橋(ブリッジ)を見学する。A・P・Lのこの型の船は船齢が古い為、ブリッジもなんとなく、古めかしさを感じる。我々を案内してくれた、チーフ・オフィサーのカルパックさんは、元べアーラインで働いており、その後、A・P・Lに移ってきたオフィサーのようだ。もちろん彼も船長免許を持っており、50才すぎの頭のはげたおっさんである。我々はべアーラインと言えば、すぐに「マリポサ」、「モントレー」と頭に思い浮かぶ。「モントレー」は一時ハワイ沖でもう一度あの勇姿を見せてくれるという朗報も入ってきたが、果してそれも今はどうなっていることやら。我々船キチからすれば、もう一度復活してもらいたい船である。
話が横道にそれてしまったが、ブリッジ・ツアーの後は、恒例のラウンジでのドリンキング・タイム、そして夕食と続くのである。夕食の時間は航海中の為、PM5時45分からスタート。夕食では初めて、シーフード(車エビのフライ)がメニューに登場する。さっそく試食してみたが、日本で食べる方が数段おいしくてかなりがっかりする。それに今日は、ロッフィーさんの誕生日とかで、我々のテーブルにも、ワインがサービスされる。ロッフィーさんのダイニング・テーブルには、大きなデコレーションケーキが飾られ、パッセンジャー達から、「HAPPY
BlRTH DAY TO YOU」の合唱が始まり、やがて歌がやむとロッフィーさんが、ケーキの上に飾られたローソクの火を一気にふき消す、又してもパッセンジャー、オフィサー等から大拍子、こうしたちょっとした心暖まる光景も、船旅をしているからこそ経験できるもので、決して飛行機の旅では味わえない、素晴しいイベントであろう。ロッフィーさんは、夫婦とも本船で、誕半日をむかえたラッキーな夫婦だそうだ。こうしてロッフィーさんの誕生パーティをダイニングで行なっている内にも、船は高雄港にどんどん近づいていく。
あと1〜2時間もすれば、高雄港だ。デッキに上がると、もうかなり近いところに灯が見え出した。結局本船が高雄港に接岸したのは、PM11時過ぎで、この時間では、町に出かけて行く気力もなく、本船が高雄港に接岸後、すぐさまベッドにもぐり込む。
12月31日
朝食を早めに済ませ、粟武さん、ベンジャミン女氏とタクシーを拾い、華王大飯店に向かう。私は高雄の町はこれで2度目、4年前に一度この地を訪ずれているが、その時の町のふん囲気と今とではずいぶん異なり、改めて時間の経過を感じさせられた。粟武さんとは、PM2時にホテルで再会することを約束して、それぞれ町に出かけた。
高雄といえば、船キチにとっては、船の解体所を見学しなければならない。しかしながらホテルの前から拾ったタクシーの運転手は、英語が全く解せず、やむなく漢字の筆談の御世話になる。台湾は漢字が通じるので、そこはありがたい。しかし悪戦苦闘であこがれの解体所に連れていってもらったものの、がらくたばかりが山積されており、私のお目当ての戦利品は全く無く、がっかりして、早々に解体所を引き上げる。昼食は市場の比較的こぎれいな店で、ラーメンをいただく。値段は日本の何分の1。でも私には日本のラーメンの方がずっとおいしく感じられた。昼食後何の目的もなく町をぶらぶら歩いていると、やけに五金行という看板が目に付く。日本流にいえば、金物屋さんか。そんなお店が一軒置きに並んでいるみたいだ。やはり高雄の解体所から出るスクラップの一部であろうか。
粟武さんと約束した、PM2時にはまだちょっと時間があったので、町角のコーヒーショップに立ち寄る。日本語の達者なおやじさんが店先にいて、盛んに私に話しかけてくる。今台湾では「救心」が非常に人気があることや、ニコンのカメラが高く売れると、私が聞きもしないことを次から次へ話してくる。そんな暇なおっさんの話をまともに聞いていたら、約束の時間に遅れてしまいそうだ。やっぱり案の上、私の予感が的中し、華王大飯店にもどったのは、PM2時15分。粟武さんも、ベンジャミン女氏もロビーには居ず、結局タクシーでPlER6号まで飛ばす。帰りのタクシー代は88元、行きに利用したタクシーが200元、おおよそ半分以下の料金だ。実にいいかげんな雲助タクシーが多いことか。でも岸壁で客待ちしている時間も料金に入っているのだろうと思うと、それもある程度は納得できようか。
本船は本日のPM4時高雄港を出航予定。しかしコンテナーの荷役が若干遅れた為、結局定刻より30分遅れのPM4時30分に岸壁を離れた。まあ、貨物船としては比較的優秀な方といえよう。出港後30分して、ラウンジで、「NEW
YEAR CELEMONY」が始った。キャプテン・モンソン初めチーフオフィサー、パーサー、チーフスチュワード達が皆正装でラウンジに勢揃いした。ラウンジのセンターテーブルには、オードブルがいっぱい並べられ、シャンペングラスにシャンペンがつがれ、キャプテン・モンソンの音頭で一堂が乾杯。ちょうど客船でいえば、乗船した夜に開催される「WELLCOME PlRTY」にも似た楽しいパーティであった。さて、今晩で釜山から御いっしょして来た粟武さんともお別れだ。彼は香港で明日下船し、2、3日香港に滞在して、日本に帰るそうだ。彼らと別れてしまうと、ほんとうにこれからは私1人。今までは、日本語のわかる人が乗っておられたので、何かと心強く思われたが、明日からはいよいよ私だけの船旅かと思うと「NEW YEAR CELEMONY」の楽しさとは裏腹に、ちょっぴり明日からのことを考えると不安になってくる。しかしこうしたセンチメンタルな気分になっている内にも、1980年はもう数時間で終わり、新しい年1981年をむかえようとしている。
今の時刻、日本のテレビでは、紅白歌合戦やレコード大賞の発表が行なわれ、これも本船の船旅同様、10年1日の如く、毎年同じパターンを繰り返していることだろう。しかし、本船ではそんなマスコミの影響もなく、別世界に来ている感じで、新しい年1981年をもうしばらくしてむかえようとしている。ラグナ・バッケーで1979年の大晦日を、そして1980年の大晦日をプレジデント・ケネディーと2年連続の船上での「NEW YEAR」である。よくよく私も船キチとみえて、今後当分船とは緑を切れそうにない気がする。1人身が悪いのか、あるいはそれともほんとうに船が好きなのか、ほとほと自分の船キチぶりにはいやになってしまう。この調子で行くと、来年も再来年も船上で……。となってしまうかもしれない。心をこめて、「GOOD‐BY 1980 AND WELLCOME 1981」と汽笛の音とともに口ずさむ。
1981年1月1日
「NEW YEAR」をむかえたというのに、今朝も単調な朝食から一日が始った。今日で、同僚の粟武氏ともお別れだ。天気の方は昨日に引き続き快晴。午前11時過ぎには、本船は香港のコンテナーヤードに到着。香港のコンテナーヤードは、町から1時間ほど離れたところにあり、いささか町に出るには交通の便はよくない。しかし香港のコンテナーヤード自体は仲々素晴しいものであった。本日の昼食は正月元旦の為か、別刷りのメニューが用意され、普通の日の昼食よりも、心持ちメニューの中身が豪華である。粟武氏との最後の昼食をとる。昼食後粟武氏をコンテナーヤードで、見送くって、1人で町に出てみる。
先ほど述べた通り、町まではざっと40分〜50分。私はペニンシュラーホテルの前で下車する。ペニンシュラーホテルは、1月1日新年の観光客をいっぱいむかえて、ロビーは人人人でごった返していた。コーヒーラウンジも一寸の余地もないほど混雑しており、いまさらながら香港に観光客が多いことを感じさせられた。日本人の観光客も多いが、他の国の観光客も相当いるようだ。
さて香港は昨年の「ラグナバッケー」で、寄港して1年ぶりの訪問である今香港では地下鉄が開通してたいへん人気があるそうだ。日本でも東京、名古屋、大阪と地下鉄がどんどん開通しているが、しかし東南アジアでは、ソウルと香港だけだ。しかしこの誇り高き地下鉄も乗客だけが香港製。あと全ては、エコノミックアニマルのメイド・イン・ジャパン製で、トンネル工事、車輛等全て日本人の手に依るものだ。香港の地下鉄は中環(香港島)〜観糖まで開通し、観糖から以降は地上に出てしまう。御自慢の車輛は先程も言った通り、日本製で、ロングシート(ステンレス製)で、30分も腰をおろして座っていると、お尻がいたくなってしまう代物だ。高雄でのコーヒーショップのおやじの話しじゃないが、台湾では「救心」が香港では「サラリン錠」が必要に……とふとそんなばかなことを思う。私は中環で途中下車し、香港サイドをぶらつく。香港サイドは、九龍サイドに較らベ、心持ち町行く日本人の観光客も少なめか。でも百貨店など、のぞいてみると、やはり店にはたくさんの日本人観光客がおり、日本語が即座に私の耳元に飛びこんでくる。香港サイドでの買物は、男性化粧品1つのみ。
ところで香港とくれば、スターフェリーだ。地下鉄や海底トンネルが開通するまでは、スターフェリーこそ香港の九龍と香港島を結ぶ大動脈であったのだ。しかし今でも、このフェリーに対する香港の人達の愛着はなくなりそうもない。九龍島から香港島までわずか30セント。こんな安いフェリーが世界中探してもないであろう。香港島から九龍島までは、10分〜15分のミニ船旅であるが、不思議とこのスターフェリーに乗ると、香港に来ているという実感がわいてくる。いつまでも健在で働いてもらいたいと願う。香港では船内での夕食の肉料理には閉口してしまったので、一昨年立ち奇った、日本料理屋(ナゴヤ)で、飯を食べる。この店のオーナーは名古屋出身の人で、店名もその出身地からとったとのこと。ただ残念ながら、一昨年知り合いになった、板さんは相にく日本に帰ってしまい、他の板さんが交替で来ていたということである。さっそく板さんにまぐろの刺身をさかなに、一杯やる。船内での食事とは違い、何となく落ち付いた気分で食事ができ大満足である。
この店のすしねたは、全て空輸で日本から運ばれてくるそうで、価格も日本で食べるより、2〜3割高い。ただ板さんのにぎる寿司を食べていると、ほんとうに日本食のおいしさがわかってくるようで、又これから肉料理ばかり食べさせられると思うとぞっとする。ただエビとイカだけは現地産のものだそうだが、仲々おいしい。レストラン名古屋で1時間半ほど日本食を堪能して、帰船する。
本船の香港出航は、1月2日、AM4時。早朝出発でちょっと中途半端な時間帯だ。近年貨物船のコンテナー化が、増々増えてきている今日、こうした出港時間も無理からんことであろうか。明日ベッドで目ざめたらもう本船は釜山にむけて東シナ海を北上していることであろう。
1月2日
香港で粟武氏が下船してしまった為、今朝より私のテーブルメイトが変更になった。ジョンソン夫妻が私の新しいテーブルメイトで、奥さんはものすごく早口の英語でまくし立てる。しかも南部なまりの英語で、英語の弱い私など、よっぼどゆっくり話してくれないと、さっぱりわからない。しかしよくしたもので御主人の英語は、比較的私にも聞き取りやすい英語で非常に助かる。でも昨日までの粟武さんと異なり、何分にも日本語のわからぬ相手、相当苦労しなければならない。泣くも笑うもこれから毎朝ジョンソンさんと1月6日まで、おつき合いしなければならない。まあブロークンイングリッシュで何とかなるだろうと楽感する以外に心の依り所はない様に思う。
本船は早朝、香港を出航し、帰路は釜山まで直行だ。今からおおよそ3日間の長い船旅だ。本船では香港で、粟武さんを降ろし、その変わり又新しいパッセンジャーを香港よりむかえ、パッセンジャーの数は、来た時と同じである。
午後本船2回目の海上避難訓練を実施、前回と同じく、10分〜15分で終了。4時過ぎには、ラウンジであきもせずティータイムが始まる。ほとほと1カ月以上いっしょに乗船して、話すねたがあるものだと感心する。私もこのティータイムに参加するのだが、アルコール類は一切飲まず、コーラかスプライトでおつき合いする。前に述べたようにたまにはアルコール抜きの船旅もいいものである。
本日の夕食では、ばかでかいビーフステーキをいただく。味はともかく肉の厚さと大きさにはたまげてしまう。
夕食後はテーブルメイトのジョンソンさんより「アメリカ地理講座」を受講。わかりやすい英語でゆっくり話してくれるジョンソンさんの親切さには頭の下がる思いであった。「地理講座」の後はラウンジで映画を見る。しかし日本語の字幕なしでは10分も見ていると頭が痛くなってくる。映画も終わらないうちに、そうそうラウンジよりキャビンに引き上げる。まだ9時ちょっと前だが、ベッドにもぐりこむ。今日の格言「早寝早起きは三文の徳」
1月3日
朝食のドラの音で目がさめる。目と瞼がくっついてしまうほど眠いが、今朝又朝食を抜いてしまうとジョンソンさんに悪いと思い、急いで顔を洗い、ダイニングに下りて行く。朝食はやはりみそ汁とお新香がよい。パンとスクランブルエッグを食べたが、日本での普段の食事に慣れているせいで、あまり満腹感を感じない。今ごろになって香港で日本食を買い込んでくるのを忘れたことを後悔する。食事を済ました後は、とにかく軽い散歩だ。これは乗船後毎日かかさず実行している。
東シナ海の風はちょっと曇り空の関係か、肌寒い。本日の「NOON POSlTlON」、北緯25度30分、東経121度、まだ台湾の台中の東海岸を航海しているもよう。釜山には1月4日の夕刻に到着予定。そして釜山出航がたぶん1月5日の朝だろう。待望の釜山までは刻々と近づいているものの、まだ2日はたっぷり船旅をしなければならない。ただ今日の夕刻には、日本の海域に入っていくもよう。日一日と近づいていく釜山を思いつつ、本日も終日船内でぶらぶらして一日を過ごす。
1月4日
今朝も又又単調な船内生活で、そろそろ船旅もあきてくる頃、本日はAM11時よりラウンジでキャプテン主催のパーティが開催された。ただこのパーティもいつものメンバーで、いささかマンネリぎみ。さしたる収穫もなく終った。今日も一日中海上での生活であった。釜山まであと1日。
1月5日
昨夜は待望の釜山港に接岸できることを楽しみに床に着いたが、朝目ざめてみると、どうも本船が釜山港に接岸している形跡がない。ブラインドを開けてみても、確かに釜山港に入っているのは間違いないのだが、いっこうに船が動いている様子がない。多分、湾内で、沖待ちでもしていると思いながら、朝食をとった。だが朝食を終えてもいっこうに動こうとせず、ほんの眼下に釜山港が見えているのに上陸できないのが実に残念でたまらない。
昼近くにようやくパーサのクラークが、「HOT NEWS」と言って、ラウンジに入ってきた。どうもクラークの話を要約すると、釜山港には本船に積み込むコンテナーが6個しかないとのことで、本船は釜山港を抜港して、次港の神戸にむかうとのことであった。私もルーム・スチュワードのウイリーもこの知らせを聞いて大ショックであった。ウイリーを廊下に見かけて、「COME BACK TO KOBE」と言うと、彼も私に、「今朝シャンプーとシェービングをしたのに……」と私以上に大むくれの様子であった。旅にハプニングいや船旅にハプニングは付きものだが、釜山が抜港になるとは夢夢思ってもいなく、「さようなら釜山」となにか心の複雑さを感じた。
釜山港を後にすると決まると、本船は30分も経過しない内に湾内を出て、神戸港にむけてエンジンを鳴して走り出した。だんだん釜山の町が船から遠ざかっていくに連れて、又又さみしさが増してくる。もう一度「さようなら釜山」。
船は船速を増し、PM6時頃には関門海峡を通過した。サンフランシスコのゴールデン・ゲートとは、規模もスケールも違うが、この関門海峡を船で通過するのは、何度経験しても楽しい。まさしく「船旅万才」と叫びたい心境である。この関門海峡を通過したころから、本船にパイロットが乗り込んできた。多分本船は夜の瀬戸内を航海して明日の朝神戸に接岸の子定と思われる。夜の瀬戸内はパイロットなしでは非常に危険であり、必らずパイロットを乗せなければならなくなっている。このパイロットを乗せると費用がかさむが、予定通り明日神戸に到者させる為にはやむ負えない措置かもしれない。
キャビンの丸窓に置いてあるラジオから、時々広島放送のディスクジョッキー番組が部屋にながれこみ、とうとう日本に帰ってきたという実感が胸にこみ上げてくるようだ。もう私の長い船旅も今晩で90%以上が終わり。明朝神戸にて下船するわずかな時間を、瀬戸内のとても素晴しい夜景を見ながら楽しむことにした。
1月6日
本船は定刻通りに神戸港に接岸し、12月26日より1月6日まで、ちょうど12日間の船旅もこれで終末をむかえた。これだけ長く船旅をしたのは社会人になってから初めてのことで、今までの私の最長船旅記録だ。
思えば長くて短かくもあった。釜山〜沖繩〜高雄〜香港〜釜山(湾内に入っただけ)〜神戸とバラエティーに富んだ船旅も、今後だんだん出来なくなっていってしまうことだろう。船内でのあの退屈な日々の連続も今思えば、楽しい思い出であり、次の船旅への活力を私に与えてくれるにちがいない。
さようなら、APLプレジデント・ケネディーと口ずさみ、ギャングウェイをあとにした。
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