QE2添乗記

スワイヤ船客部 小塚 泰次


 人には誰でも忘れられない思い出の1つや2つは必ずあるもの。
 1975年は私にとって忘れることのできない年でした。 3月初旬,未だ肌寒い早春の横浜港に,世界一の豪華客船QE2は,威風堂々入港して来ました。空には新聞社のヘリコプターが舞い,海には歓迎の消防艇から水煙が上り,音楽隊も一勢に演奏を始めた。 港を取り囲んだ数拾万の見物客から大歓声が上り,世界一の豪華客船の初入港にふさわしい興奮が港一帯に広がった。
 私はアッパーデッキの一隅のソファーに腰を下ろし,香港からの4日間の厳しい旅を思い出していました。私にとっては終生忘れることのできない船旅でした。

 トラブルは本船がシンガポールに到着したときから始まりました。シンガポール・香港間で数10名のオーバーブッキングが報ぜられたからです。 その区間には日本人のブッキングはありませんでしたが,香港・日本間には130名程の日本人のブッキングがあり,同区間にもオーバーブッキングが生ずるのではないかとの私の疑惑が的中しました。約30名のオーバーブッキングです。キュナード社の説明によれば,配室コントロールのIBMが故障し,手入力に切り替えたために生じたミスとのことでした。 本社より,30名分の予約を取り消せとの指令。既に切符も発行し,乗船日を待ち望んでいるお客様の予約を,今更済みませんで取り消すわけにもいかない。配室担当の私の苦悩は1週間続きました。

 しかし最終的には次の処置を取ることにより,一応オーバーブッキングは解消しました。その処置とは,
1:船側にMARRY-UPを依頼する(2人部屋に1人で入っている客どうしを組み合せ,1部屋空けること) 
2:日本人の客の中で,ホノルルに行き先を変更できる人を募集する。
3:船内で香港・日本間を飛行機に乗りかえて,その間部屋を空けてくれる人を募集する
ことであったが,これらの策を実施することは,また大変な仕事でありました。

 船は日毎に香港に近づき,気のあせりもあり,食事ものどに通らぬ始末。しかし,香港に到着する1日前に,オーバーブッキングは解消した。ただ解消したといっても,部屋数が空いただけで,予約した等級の部屋が空いたわけではないので,相当数のお客様は,DOWN−GRADEを余儀なくされる始末。 また相当数のお客様は既に香港に出発してしまっているので,切符の切り替えもできず結局,香港で乗船後,いろいろADJUSTすることになったわけで,私はまるで虎口に飛び込む様なつもりで,香港に直行しました。

 そして,乗船時の私の悲劇が始まったのです。 「私のキャビンはどうしたの。」と眉をつり上げた奥さんが追る。「小塚さん,僕のキャビンはバス付きの筈だが……。」 私は事情を説明し,お許しを願う以外に方法がない。さんざんお客様につるし上げられたが,無い袖はふれぬ。船側は差額をRE‐FUNDするからと言うだけ。何とかお客様に納得して項いたのは,夜も10時を大分過ぎていました。 ほっと一息つく間もなく,乗船の日本の検疫官より,乗組員の数名のコレラの予防注射の期限が切れているのですぐ予防注射をする様にとの指令。船医に伝えて,その乗務員を探し出し,予防注射を終えたのは,既に夜中の12時を過ぎていました。

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 不夜城のQE2も12時過ぎると,ラウンジの人数も少なくなります。 私は,一息ついてラウンジの片隅に腰を降ろし,ジントニックを傾けつつ,一刻の孤独と自由にひたっておりました。 外は風が出た様子,窓ごしに見ると,波は白い頭をふり始め,QE2は28ノットの快速で,暖かい夜の海を一路日本に向けて進みます。 私はふと,ラウンジの暗い片隅に坐っている女性に気がつきました。 ラウンジでは2,3組の老夫婦が,バンドに合わせ,ゆるやかなダンスを踊っているのみで,ほかに2,3の外人がソファの背に頭をのせて眠っているだけ。

 私は,何げなく後ろから彼女に近づいた。 黒のスーツに身を包んだ女性は,白いうなじを見せ愁いを含んだ瞳は,暗い窓の外に向けられたまま。私は添乗員であり,お客様のお世話をしなければならない。船酔いで気分の悪い人はないか,言葉が解らなくて困っているお客様はないかなど,常に気を配らねばならない。「船旅は如何ですか」 私は職業意識に徹して,彼女に声をかけた。 「とても素敵」微笑みながら,私に席をすすめた。バンドの音楽はワルツにかわる。 隣のQ4のラウンジでは若い連中のゴーゴーに興ずる声が聞える。私は彼女をワルツの踊りにさそった。軽いステップにともすれば私の意識から職業感が消えかかる。踊りながら何げない話しがはずむ。「失礼ですが奥様ですか」「いえ未だ独身よ。OLなんです」 ここで会話は終ればよかったのですが,「お務めは,どちらですか」…こんなロマンチックな夜,現実的な会話はさけるべきなのに…。そしてその返事も私を現実に引き戻すに充分でした。 「私,この船の代理店のスワイヤに勤めています」「……」「大阪の事務所なんです」私は彼女を知らなかったし,彼女も私を知らなかったのです。 私はすぐ「実は私もスワイヤの人間で,香港・横浜間の仕事で添乗しているのです」というべきでしたが,何故か言葉が口から出なかった。何も後ろめたい気持を感ずる必要もないのに…。恐らくロマンチックな夜の,あっけない終結が残念だったのかも知れない。
 QE2の夜は未だ長い。私の仕事もなかなか「THE END」にならない。入国管理官の仕事が未だ終らない。乗客リストが不完全とのこと,また乗客のパスポートが2,3不足だ。 全くなんとしたことだ…。横浜に着いて迄こんなトラブルが続く。しかしそのために添乗しているのだから仕方がない。


 思えば私の船客課の仕事も20年をこえた。ときには嫌になることもあったが,よく続いたものだと我ながら感心する。 私も船旅の魅力にとりつかれた1人なのです。すべての束縛と陸上の煩雑さから逃れて孤独の中に,心の底から自由を感ずるとき,広漠とした空,水平線,心をうつ海の紺ぺき,ありのままの大自然の真実さに直面して,深い感動に身をゆだねる時,しみじみと船旅のすばらしさを感じます。 文明が進めば進むほど,人間の自然への回帰の欲求は増すでしょう。 そして人間が存在する限り船旅も存続していくでしょう。
 A SHlP,AN lSLE,A SlCKLE MOON,WlTH FEW BUT WlTH HOW SPLENDlD STARS,THE MlRRORS OF THE SEA ARE STREWN BETWEEN THElR SlLVER BARS. JAMES E.FLECKER(1884−1915)


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