想い出のラファエロ

増田 米高


 今日は!!の公平さんからラファエロの記事の依頼の葉書を受け取ったのが4月24日。 ところがその翌々日、4月26日の日曜日に乗船以来8年間,全く御無沙汰の当時の乗船者全員が,ポートピアを契機に本当に久し振りに,皆で会合しましょうとなっていたんだから……。全く驚いたネ−−。ラファエロの霊魂の導きか?それとも今日は!!先生の霊感か?偶然にしてもピッタリで,何だか気味が悪い。書くことはいたって苦手の私だが,崇り除けのつもりで引き受けることにした。
 確かあれは昭和48年の秋だから,あの後S/Sフランスで大西洋往復,そしてカリブ海をオセアニックで2度と,ロッテルダムで1度,QE2で太平洋,又ベニスからエーゲ海,地中海を,ナバリーノや,ラパーラで,その他パシフィクプリンセスのメキシコクルーズ,プリンセンダムでのインドネシア一周,沢山の船に乗ったので想い出も多少薄らぎましたが,幸い26日に,ポートピアホテルの31Fのアランシャペルでフランス科理を味わいました。その時14人の皆さん方と,あれこれ当時の思い出を語り合った事を参考に書き列べて見ましょう。

 この一行14人は,この日のお世話をして下さった神戸の美しい女医さん,田中道子先生を中心にしたグループです。先生のお父さん厚田杉雄社長と母堂の寿々夫人(御夫妻はその翌年ヴィエンダム号で,今日は!!先生と御同船の筈),他名簿を附記させていただきます。私は一番最後に、ロイヤルバイキングの御常連の三浦夫人に誘われてお仲間に入れていただきました。


 昭和48年9月14日,A.F.(エールフランス)で羽田を飛び立ちパリに3泊しました。そして南仏二ースに2泊し,9月19日朝食後,二ースのホテルを出発しました。
 モナコやサンレモやアラツシオの美しいリビエラ海岸を東へ,昼過ぎイタリアンラインの母港ゼノヴァに到着。
 まず眼につくのがあの特徴のある巨大な2本のベロ付篭型煙突です。これがこの姉妹船ラファエロ・ミケランジェロのシンボルだ。 美しい彼女を縛りつけているアンドレドリア桟橋には,今はチェックインとボーディング手続きのパッセンジヤーでごったがえしている。

 小1時間して,やっと乗船し,キャビンNo.207に案内された。日本出発前に想像していた通り,いやそれよりも正直にいって,悪いキヤビンには失望した。ツーリストクラスではなくキャビンクラスだからとの事だったが,これならツーリストは思いやられる。 まあ短かいツアーだから辛抱せねばならない。切角,色々御親切にお世話下さった田中先生に申し訳がない。割安の団体旅行の事だから,当然の事と思う。それにしても,狭いインサイドで窓なしキャビンは,平素ぜい沢な私には多少苦痛だ。 それにスチュワードのイタ公,ドン柄だけがお相撲さんの様に大きくて,お愛想のない野郎だ。 何しろこの船には,初めての日本人だし,彼等は日本人と思っとらんらしい。中国人と思っとる様だ。 そこで「スチュワード!アイケイムフロムジャパン,アイムジャパニーズ」とどなってやったんだが,きょとんとして通じない。イタ公の奴,小生の英語では駄目らしい。

 「ボーッ」と汽笛,そうだこんな野郎に腹を立てるより,さよなら,ゼノヴァ。アルデベルチ,ゼノアーと甲板に駆け上った。 船旅で最もロマンを感じるのは,何と言っても出帆のときだ。日本での出帆にはセンチメンタルな蛍の光のリズムを一ぱいに響かせる。船から岸壁に渡されたテープが一本一本切れる。それから遠ざかる船との間に別れを惜しんでの白いハンカチの揺れる哀愁のムードは,この波止場では見られない。 そして普通舳先を陸に向け,艫(トモ)を沖に接岸し,出帆に半回転して,出帆する事が多い。 が,ここの港,ベツキオ湾は大変小さく,この船の繋ばれたドリア桟橋が,湾造りの片側を造っている。その桟橋自体がこの船の全長である。 舳先を沖へ向けて引かれたタグボートの二隻にお礼と,お別れの,ボーッとの汽笛もそこそこに,二船身も前進すれば最早,港外の地中海に乗り出している。という実に,何だか味気のない出港。 まるで新幹線の見送りにも似て,とてもアリベデルチゼノアなんてムードなど,更々沸かない。
 さすが9月も半ば過ぎには,地中海でも船のスピードを増してくると,膚寒く甲板のドアを力一杯引っぱって廊下に飛び込んだ。 パセンジャーの多くも一勢に公室に入り,窓越しに走る地中海の景色を楽しんでいる。 夕陽の傾く西へ向け,スクリューの回転も急ピッチ。白波を立てて走り続ける。矢張り素晴らしい出足だ。20ノット位はもう出ているだろう。ドーン,ドーンと舳に波の音を立てはじめた。もう6時になる。

 7時,初めての夕食,勿論今夜はカジュアルウェアなので背広にネクタイでテーブルに向う。我々は5人づつ3つのテーブルに座る。黄色い我々が珍らしいんだろう。 皆の視線が,こちらに向いている。一応,笑顔で返しておく。 さあ困った。メニューを開くと,左側がフランス語,右側にイタリー語,全然英語を記されてない。仕方がないので判読でのオーダー。まずオードブルにスモークドサーモン。スープはコンソメ。そしてイタリアンスパゲティ。お魚はひら目のムニエル。エントレはテンダロインビーフ。デザートはシャーベットと果物と紅茶。何とか私の英語で通じた。 食事は先づ上々だ。
 食後は,一応腹べらし散歩に船内見物。 メインボールルームのサラベネチアーナ,サラリアルト,そしてサラムラノ,さすが立派な公室,既にダンスタイムで幾組ものカップルが楽しそうに踊っている。 ダンスの好きな私,ムズムズしているが,何しろパートナーが見当らないので辛抱。
 廊下に出ると海は,月明りに照らされ,可成り荒れてきている。ダ,ダーン,ダ,ダーンと白いスプラッシュをとばして,相当なスピード,大方25ノット程出している様だ。

 ノックで驚いて眼を覚した。何しろ窓がないので,スイッチを切れば,夜も昼もまっ暗だ。大急ぎで着替えて朝食に出た。 相変らず,船はバン,バンと波をけたてて走っている。
 10時過ぎ,船はマジョリカのパルマに入港した。美しい島だ。美しい港だ。 海岸線に,白い美しい建物が並んでおり,右ホテルのはずれに,教会の十字架を尖頭に大きなドームが見える。 エクスカーションのバスに乗り,美しい海岸通りから細い石だたみ道を曲折して,まず最初に案内されたのがスペイン村。 日本の犬山にある明治村の様に,スペイン各地の建物を,取り入れられてあるらしい。 トレドの門を入ると,内部に長方形の池が造られ,正面にアルハンブラ宮殿造りのパテオが見事だ。続いてベルベ城と呼ばれる高台にあるマジョリカ王の居城。城壁に上って見下す。このパルマの街と港が素晴らしく,波止場に白い姿体を休ませている我々のラファエロの巨体が,ミニチュアの様に,美しく青い地中海に映えている。 帰路,海岸通のホテルの内庭で,この島のダンスを楽しませてもらう。 出港迄の自由時間に,13世紀に建てられた船上から望見した教会(カテェドラル)の内部を拝観。

 5時乗船。夕食中に船はジブラルタルに向って出帆した。
 21日朝食後,地中海の喉首であるジブラルタル海峡の風景の観賞をかねて,せめて一度はこの船のリドプールにて,泳いで見ようと若井さんと横井さんと3人で,水泳パンツ姿で勇躍リドプールサイドに出た。 既にプールサイドには,20名程のパセンジャーがそれぞれの水着自慢で出て来ているが,強いアゲンストの風の為か,サンビームも寒いらしく,皆リド・バー寄りにチェアを並べて風よけ中。彼等の数多い視線の中に,多少の寒さも承知の上で,若干の準備運動後,水に入る。水温はそれ程でもない。 勇敢と言おうか,その名の通り,若井さんがのこのこと,飛び板のとっ先まで歩いていった。「おーい,跳びこんでみろよ!」とでもひやかしているんだろう。イタ公の野次がワッと笑声を呼び,外野席一せいに大拍手。 しかし水中にあり,しかも言葉が明らかに理解出来ない私達は,どうしょうもない。 ただ若井さんを見上げるだけ。しかし嬉しい事に,若井さんがサッソウと跳び込んだ。仲々立派なフォームで,もう60才に近いこの人を,本当に名の通りとつくづく感心した。 水温は決してそんなに冷たくないが,上ったトタン強い風に膚寒く,大急ぎでキャビンに戻り,シャワーを浴びた。

  
船内新聞(拡大)

 着替えて,甲板に上ると,もうジブラルタルがすぐ見え,岩壁に大きな巨石の岩山が見える。この岩壁がなんと,200米からあり,ジブラルタルの象徴だそうだ。この山を右へぐるりと迂回したら岩壁が一つ,之に船は接した。
 この岸壁から街まで1粁もあり,ジブラルタル観光は,そこまで徒歩で行かねばならない。ところが運良く空車タクシーが,私達の前に止まってくれたので,喜こんで飛び乗った。が,もう2人乗せろ,この車は4人の相乗りだとのこと。偶々,近くにいたイタリー人の母娘を手まねきしたら,喜こんで乗って来た。 ところで,勿論ジブラルタルは英領で,運ちやんはスペイン人,お客の2人は日本人,他の2人はイタリー人。ガイド兼運ちゃん,ハンドル片手に,右に見えるのが,○○砲要塞で,左が英海軍基地とか。まず助手席の私に英語で,続いて後の娘にスペイン語で,そしたら私がそれを日本語で若井氏に,セニョリータ(イタリア娘)がスペイン語の判らないセニョーレ(イタリーの母親)にイタリー語で説明,又続いてのガイドの英語とスペイン語,私の日本語に,セニョリータのイタリー語,がやがやペラペラ,ワイワイと,こんなややこしい観光は,生れて初めて,小さいタクシーの奇妙な出来事でした。 英軍基地と向うに見えるアフリカのタンジール。ただ,それだけで面積は大阪の中之島ぐらいの小さいもの。3時間も廻れば,見るところも無いので,船に早々に引揚げた。

 夕方5時,このジブラルタルの出帆を楽しもうと,ベランダデッキに昇って見た。 何とこの船は珍しい。もう一つ上,即ちナビゲイションルーム(操舵室)の上にパセンジャーを上げてくれており,10数人の客が上っているので,階段を上った。上からウィングにいる船長や,パイロットを見下し,出航の準備中のチョッサー(一等航海士)や甲板員を直接眺め得る最高の場所で,こんな所に,欄干まで作って,船客に自由に昇らせてくれる船は見た事はない。大抵はあっても使用禁止で閉ざされているものだ。 それにしても,ここから見てはじめて気がついた。この船のプロポーションの良い事だ。というのは.私の立つ位置,ナビゲイションルームから舳先まで,実に細長くスマートで他の船で良くみる,小さなプールとかテンダーボートとか,ごてごてしたものが置いてない,実にスタイルの良い舳先だ。 その舳に2隻のタグボートが牽引用意して待っており,トモにも1隻,船長の指図で,3隻がフルに引っぱり出したが,全長275米のスマートな巨体に,直撃する大西洋の西風が真っ向からで,タグボートの苦しそうな事,一時はこの巨体又岸壁にぶちあてられるんではないかと,見守りました。 がやっとの事,約30分かかって出航,大西洋に向って動きかけました。この附近,いや大西洋の西風の強さを,まざまざ教えられました。

 22日朝食を取りに行く頃,船は大西洋からテージョ河に入り,もう間もなくリスボンに近い。 朝食後,我々の貸切バスで市街観光,ロッシオ広場,ポンバル広場ベレムの塔,馬車博物館等を見物,帰船後,夕食をとる。
 夕食後,船長,チーフパーサー,ドクターと我々のスペシャルパーティが,サラリアルトで催された。勿論これらの3名は英語がお上手だが,ドクターの日本語ペラペラには全く驚いた。そのドクター「朝顔につるべ取られてもらい水」は加賀の千代ネと全く恐れ入りました。日本に大変興味を持ち,色々勉強もしているとの事だが,行きもしない日本特に日本語には全く,驚かされた。
 早いもので,いよいよ今晩だけ,明朝モロッコ,カサブランカ到着,そして上陸だ。何といそがしい日本団体式旅行だ事。 出来ればこのまま,この船でぜノヴァまで帰りたい。あの乗船してキャビンに入ったときの,不愉快なグチをこぼした事が何だか,気恥しい。

 いよいよ上陸。昨夜のドクターがギャングウェイまで我々を見送りに来ていてくれた。 ありがとう。カサブランカ,アフリカ大陸に上陸したのだ。モロッコの通関は,割合に面倒。何故か身体がけだるい。バスに乗り込んで横になった。どうやらリスボンで飲んだミルクが,悪かったのかしら? ホテルで田中先生に注射していただく。お蔭でカサブランカの1日はホテルで熟睡。
 24日はすっかり元気を取り戻して,皆と賑やかに観光を楽しむ。空路マドリッド→ジュネーヴ→パリ経由,9月29日羽田空港に帰着した。


この船に対する私の総括的な感想は
@外見のデザイン及び公室のインテリヤ等はさすがと思える,実に立派,見事なものです。
A経済力の弱いイタリー人を主とする船客向きのため,収容人員を主眼とするため,キャビンは無理な部屋取りに思う。
B食事は全般的に悪くはないが,矢張りフランス号、QE2とは格差がある。勿論グレイドも悪いためかも知れない。
C地中海クルーズには矢張りアメリカ人の利用者の少ないためか,英語の利用されていないため,我々日本人にもやや不向き。


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