幼年時代の航海記
谷口 修

 何故,こんなに船が好きになったんだろう。いろんな人たちとの出合いが,僕を成長させ船を好きにさせていったんだろうか。僕はまだ16歳である。乗った船もほんのわずかで当然のことながら内航のカーフェリーや旅客船ばかりである。でもそれぞれにいろんな想い出がある。そんな想い出を書いていこうと思う。


 僕のいなかは淡路島。当然,船でなければ行くことのできないところである。そこで,最初は淡路航路の船のことから書いていくことにしよう。昔,関西汽船が神戸〜洲本航路を持っていたころ,”あわじ丸”と”すもと丸”という2隻の客船が就航していた。この2隻の客船は,僕に多大な影響を与えた。当時,この航路には,ブタの船長という船長さんがいたように記憶している。たしか白ブタ・黒ブタと2人いたように思う。たぶん白ブタの方の船長さんだったと思うが,ブリッジで舵輪をさわらせてくれたり,(何分まだ小さかったため,もっとやっててええよと言われたものの衝突するのがこわかったから,すぐに二等航海士の人にかわってもらった。)絵はがきをもらったりして,これがやみつきになったんだろう。また小学校の3年生ぐらいだと思うんだけど,”すもと丸”に乗ったとき,川重の艤装岸壁につながれている日本高速フェリーの”さんふらわあ””さんらいず”を見てすごいなアと思ったのが,今でも印象に残っている。船腹に描かれた,太陽といい,高い舷側といい”すもと丸”がとても小さく感じられた。あのころは早くあんな船に乗ってみたいと思ったものだ。

 話はかわって,次は淡路フェリーボート。昔は長田と浦の間を三百トン位のちっちゃなフェリーボートが就航していて,波が少しあると車輌甲板に潮がとんできて,上陸後に父が車にかかった塩水を洗いおとしていたのを覚えている。その後淡路フェリーの神戸線は長田〜浦航路が廃止され,須磨〜大磯航路だけになり,就航船も1,300トンと昔と比べると随分大きくなった。
 次は,西宮〜志筑航路の甲子園高速フェリー。就航船は,内海造船田熊工場建造の”第二はやぶさ”と金指造船建造の”第三はやぶさ”と”第五はやぶさ”。最初”第二はやぶさ”と同型の”第一はやぶさ”があったが,減便のためキプロスヘ売却された。また、”第二はやぶさ”と”第五はやぶさ”は,淡路フェリーの船として建造されたのか,最初のころは,”あわしお”、”みちしお”という船名だった。ここの船とは,就航した直後からずっと馴染み深い。家から自転車で20分位のところに西宮港があり,小学校のころは友達とよく遊ぴにいったものだ。また,僕の通っている高校が,甲子園フェリーのターミナルと隣あわせで,授業中によく汽笛が間こえてくる。体育の時間や放課後のクラブのときなど,入港や出港で時間を知る程である。また顔みしりのキャプテンもいて,とにかく馴染み深い船会社である。
 次は大阪フェリー。”フェリーみさき””いぎなぎ丸”が就航しているが乗ったことがないのでよく知らない。まだ幼ないころ,車で炬口港のそばを通ると,ちっちゃな両頭船がいてあんな船に乗って怖くないのかなアとよく思った。昔,泉大津〜志筑間に”しづき丸””フェリー第一南海”という2隻のカーフェリーがあったが,乗ろう,乗ろうと思っているうちに廃止されてしまった。他に道路公団のフェリーが明石〜岩屋に就航している。一番所しい”あさなぎ丸”は,三菱神戸の建造である。大手の造船所がこの程度の船を造るのには驚いた。四国の亀浦と阿那賀の間には淡路フェリーが1,000トン級のフェリーを運航している。他に旅客船・高速艇が,神戸・大阪・深日から洲本へ就航している。最後に”すもと丸”のところでブタ・ブタと書いてしまって,船長さんごめんなさい。

 さて淡路航路のことはこれくらいにしておいて,今度は中・長距離フェリーのことを書こう。僕が最初に乗った長距離フェリーは日本カー・フェリーの”るぴなす”である。宮崎カー・フェリーが日本カー・フェリーに吸収合併されてすぐで,たしか小学校の4年生くらいのはずである。初めて乗る大型のカーフェリーで,船内が明るいことに驚いた。この船に乗ったことが僕をどんどん船にひきずりこんだんだろうと思っている。またこの旅行中,川重に勤めていらっしやる藤田勉さんという方といっしょで,”さんふらわあ”の進水式のことなどいろんなお話をしていただいた。その後どうしていらっしやるのでしょうか。
 2隻目の長距離フェリーは,広島グリーンフェリーの”グリーンアロー”。大阪南港を朝の9時20分に出港する朝便。朝便は成績が悪く一般旅客はわずか6名である。もちろん乗用車も少し乗っているためこの日の旅客は30名程だろうか。昼の瀬戸内海を航行するので気分がいい。またこの船のカフェテリアの食事は良かったです。やすらぎのグリーンフェリーを聞きながら19時20分定刻に出島ふ頭に着岸。随所で観光案内の船内放送をながして,こりゃいいと思っていたら2か月後に廃止されてしまった。その後同社は,第三船”グリーンアーチ”を就航させて夜便のみ1日1便の日と2便運航する体制をしいたが,不況のため減便せざるをえなくなり,過剰船となった本船”グリーンアロー”をパナマに売却してしまった。
 さて広島に着いた私が次に乗る船は,日本カー・フェリーの”せんとぽーりあ”。グリーンフェリーと同じ出島ふ頭を深夜0時05分に出港する。深夜出港のため出港するとすぐに寝てしまった。夜が明けると”せんとぽーりあ”は鶴見崎の沖を走っていた。7時すぎごろだろうか,レストランにいって朝食をとる。日本カーフェリーも食事がいい。定刻8時に日向溶着。となりのバースには大阪航路の”はいびすかす”が着岸している。それからこの船に乗っておもしろかったのは,エイプリルフールのなごりか,サービス用の絵はがきのふうとうに\1,500とスタンプしていたことである。
 日向からは日豊本線で鹿児島へ。次に乗る船は日本最大の日本高速フェリー”さんふらわあ11”鹿児島谷山港を18時30分の出港である。この”さんふらわあ11”は大阪〜鹿児島には,もったいない程公室がある。ラウンジ錦江,クラブゾンネ,レストランさんふらわあ,和食堂ひまわり,船底のカジノバー,ゲームマシンルーム,エアホッケーコーナー,ゲームルーム,すべて鹿児島〜大阪の1日の航海でいくことのできなかった公室である。もちろん乗組員の削減でしめている公室もいれてである。また,船底のカジノバー等へは,船底へおりる階段を大阪入港までついに発見することができずいけなかった。ちなみに”グリーンアロー””せんとぽーりあ””さんぷらわあ11”と乗ったのは,小学校を卒業してすぐのことである。

 中学校に入って最初の中・長距離フェリーは,四国中央フェリーの”にいはま”である。最初,就航直後の”フェリーむろと”に乗る予定であったのだが,深江のりばに行くと本日満席の表示がでていて,しかたなく”にいはま”にかえたわけである。”にいはま”は,食堂が簡素だなアと思ったこと意外,さして記憶にない。四国では,宇高国道フェリーの”だいせん丸”国鉄の”讃岐丸”に乗り,帰りは小松島から”あきつ丸”で大阪へ。なおこのときは,永山明洋大先生といっしょであった。
 次に乗ったのはフジフエリーの”しま丸”今は関西汽船の沖縄航路船”くろしお”となり,あわれな姿になってしまった。東京に住んでる友達のところにいった帰りに乗ったのは,日本高速フェリーの”さんふらわあ8”シーズンオフに乗ったためか客もわずかで楽にすごせる。客が少ないためだろうが,スナックバーのバーテンさんも,アイスクリーム、えだまめやらいろいろとサービスしてくれる。隣には,高知まで帰るというトラックの運ちゃんが3,4人いて,とても楽しかったのを覚えている。ただ本船も”さんぷらわあ11”同様たった1泊の航海では,折角の設備を使いこなせずに残念であった。定刻より20分程遅れて那智勝浦港に入港。私の乗るすこし前に本船は那智勝浦の港の手前で極端にかたむいて事故をおこしていたので,着岸までキャビンにいるようにとさかんにアナウンスがある。入港が遅れたため,鳥羽に行くのをやめてまっすぐ帰宅。
 ”さんふらわあ8”の次に乗ったのは,愛媛・阪神フェリーの”おくどうご3”。就航して20日目である。私の乗ったのは朝6時40分に神戸を出港する便で,九州・四国方面から大阪・神戸に朝到着する船とやたらに反航する便である。(今はもうない)本船でいいと思ったのは,サウナ付きの大浴場くらいなものだろうか。最上階にある展望室もバーも,もひとつピンとこない。また外観もゴツゴツしていてあまり好きになれない。
 定刻に今治に入港。今度は瀬戸内海汽船の”ことひら”で三原へ。瀬戸内海西部にはいっぱい船がはしってて楽しい。書き忘れていたが,この日は,ROTTERDAMが神戸に入港する日で,ちょうど和田岬沖で検疫しているところにでくわしだ。


 中学2年の夏休み,初めて沖縄航路の船に乗る。最初に乗るのは関西汽船の”若潮丸” この日は大変だった。朝起きて,配船表をみていると,前から乗ろう乗ろうと思っていた”クィーンコーラル”に乗るには,今日の”若潮丸”に乗ればいいということを発見したのが事の始まり。まず永山明洋大先生に電話をして”若潮丸”やら沖縄航路のことをいろいろと聞く。それで”若潮丸”もマァマァだということがわかり,夕方の”若潮丸”に乗ることに決定する。(大先生はこの時点で本当に行くとは思ってなかったらしい。)昼からは,帰りの日向からの乗船券をとりに日本カー・フェリーの大阪営業所へ行く。家に帰って準備をして,食事をしているとすでに6時10分前なのである。あわてて食事を終え,三宮に着いたのは18時30分ころだろうか。出港は18時40分なのである。急いでタクシーをひろい,中突堤の沖縄航路の乗り場に着いたのは,18時38分だった。今でもこの時の時間は覚えている。途中タクシーの運ちゃんは,別府航路の乗り場と間違いそうになるしヒヤヒヤしどおしだった。急いできっぷ売場に行くと,いたってのんびりと発売業務をしよるのでイライラしているとその男曰く,「今日は貨物の積み込みの関係で出港は遅れますよ。」いっぺんにダラッーとしてしまった。
 やっとのことで乗船である。8月も下旬にはいっているため客も少ない。毛布を何枚も使って場所をとっておく。(貧乏人のため当然2等学割での乗船である)そうこうするうちに出港のドラがなり,テープがとびかうのを甲板にでてながめる。出港は19時ちょっとすぎである。西の空をながめながら関門を通過。徐々に船足が上がっていく。
 明朝,都井岬のあたりで目がさめる。少しねぼうした。昨日の疲れがあったんだろうか。志布志湾の入口をつっきるかんじで大隅半島に差掛かる。宇宙空間観測所のすぐそぱをかわし1時間ちょっとで佐多岬。開聞岳がうっすらと見える。口永良部島と荒々しい岩はだの屋久島の間を通過後,吐喇列島の東方でいるかが並走してくれた。とってもすがすがしくなってきた。名瀬の手前ではすばらしい夕日を見た。太陽が海に沈んでもしばらくはあたり一面が表現できないような美しさだった。左舷前方には奄美の島かげが見えている。
 名瀬で客の半分以上が下船したため,2等客室はがらがらになってしまった。今日も毛布をいっぱい使って熟睡する。明けて3日目定刻より20分ばかり遅れて那覇港に入港。港の入口でDC-8が本船の真上を那覇空港に進入していく爆音には驚いた。下船のさい,「乗船券を集めてるので乗船券もらえませんか。」と言ったらすげなく断られくやしい思いをする。


 ”若潮丸”を下船した私は,船内で知り合った高校生3人組の写真を撮ってやってから那覇港ターミナルに入り,クィーンコーラルの乗船券を買う。最初は学割で乗るつもりだったけれども,2等ですしずめにされるのがいやだったから特2等Aにする。昔の1等である。そのころの料金で9,800円くらいだった。1万円札を落したかんじがしてならなかった。
 那覇港では出港の際,植物持ち出しの検査や観光戻し税など他ではあじわえない雰囲気がある。待望のクィーンコーラル乗船である。黄色の制服の似合ったマリンコンパニオンがにこやかに迎えてくれる。指定されたベッドのところに適当に荷物を置きデッキにでてみる。考えてみれば沖縄滞在時間は,わずか35分であった。
 船内をぐるっとまわってみる。サンラウンジがもとあったところへ行ってみると,なんとそこは那覇から鹿児島へ行く客の2等室になっているのである。そこにいる人はサゴ寝のスシ詰。2等にしなくて良かったとあらためて思った。
 定刻9時に那覇を出港。海の色が驚くほど青い。大阪湾などとは比べものにならないほど青いのである。この青さを大切にしてほしいものだ。本部半島に差掛かる。アクアポリスがすぐそばに見える。しばらくすると琉球海運の鹿児島航路に就いている”なは丸”と反航する。同船は以前東京航路を走っていて琉海のフラッグシップであった。伊是名島のあたりで今度は,大島運輸の東京航路船”新さくら丸”と反航する。 13時与論沖に到着。はしけを待つ。降りる人が降りて,乗る人が乗り出港。 14時40分沖永良部島和泊の港に入港。とっても美しい港だった。15時10分出港。 17時ごろ徳之島亀徳の港に入港。牛をつんだりして,徳之島なんだなァと感じる。(当然のことだ)17時30分出港。白い航跡がゆるやかにカーブを描き,名瀬へ向かう。加計名麻島のあたりで日没。 名瀬には21時ごろ入港。いるわいるわこれが全部乗ってくるのかと思うとゾッとする。エントランスホールも人でいっぱいになり,21時30分出港。後部の木甲板に寝っころがる。星がいっぱいキラキラと輝いている。久しぶりにあんなに星を見た。 揺れることもなく,翌朝”クィーンコーラル”は錦江湾に入っていた。喜入の石油タンクがよく見える。谷山の沖だろうか。”さんふらわあ”級2隻が係船されていた。
 定刻より遅れて9時前に鹿児島新港に入港。隣には大島運輸の”エメラルドあまみ”が着岸している。その他屋久島方面への貨物フェリーがいだ。 鹿児島に着いた私は,午前中市内をまわる。桜島フェリーはどういうわけか乗らなかった。14時30分ごろの急行で日向市へ。途中,佐土原で事故があり,2時間程動きがとれずイライラする。日向市駅に着くと急いでタクシーに乗り夕ーミナルヘ。国鉄の要請で出港が20分遅らされていたためどうにか間に合う。

 これから乗るのは日本カーフェリーの”えびの”である。本船は元,太平洋沿海フェリーの”あるなする”で同社の九州航路減便に伴い日本カーフェリーに売却された。”えびの”もいい船だった。翌朝11時20分に東神戸に着き帰宅した。

 その後,大洋フェリーになってからの”さんふらわあ”加藤汽船”ぐれいす”、”こんぴら”,室戸汽船”フェリーむろと”,共正汽船”おとめ丸”関西汽船”おとわ丸”,広島グリーンフェリー”グリーンエース””グリーンアーチ”,広別汽船”阿蘇”、オーシャン東九の”第十一伊豆”,日本カーフェリーの”せんとぽーりあ””美々津丸”阪九フェリー”フェリーながと”,太平洋沿海フェリーの”あるごう”等に乗ったが,その想い出を書くには紙がいくらあっても足りないので書かないことにした。
 今年は,オレンジファンネルグループ,近海郵船と阪九フェリーグループ,来島グループ,それに単独で日本カーフェリーと織烈な競争で,カーフェリー戦国時代元年となろう。船ファンにとっては楽しいが,企業としては苦しいところだろう。でもそんな時代を耐え抜いてこそより大きな発展があるのだろう。だからみんながんぱれ!!僕もこれからやるべきことを精一杯がんばる。


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