「ドーニャモンセラ号」の旅

大川敏

 「ドーニャモンセラ」はフィリッピンのネグロナビケーション社の社長婦人の名を船名にしたクルーズ船である。現在マニラを起点にして、3クルーズ(マニラ、セブ、イロイロ、シコゴン,マニラ、シコゴン、ロンブロン,マニラ、ロンブロン、コレヒドール)に3コースに就航しており、フィリッピン唯一のクルーズ客船てある。「ドーニャモンセラ」の前身は、スペイン時代には「CABO、IZARRA」と呼ばれ、次いでアメリカに売却され、「WEST、TOURIST」と名を変え、そしてその後ネグロナビゲーション社が購入して「ドーニャモンセラ」と再び改名して現在に至っている。船齢は11年目でまだまだ活躍できる船である。 「ドー二ャモンセラ」の建造から現在に至るまでの経緯が「にっぽん丸(元セブンシーズ)にちょっぴり似ているのが、ちょっと興味深い。それに「ドーニャモンセラ」は来年には日本に初来航の予定があるそうである。尚このネグロナビゲーション社は「ドーニャモンセラ」の他に、5隻の船(いづれも船名の後にモンセラと付く)を保有しており、フィリッピンては最も大きな船会社である。


 さて前置きはこの位にして、「ドーニャモンセラ」の船旅に移ろう。8月27日、我々はTG621便にて大阪を出発。その日はマニラ・ガーデンホテルに一泊する。翌日9時に起床して「ドーニャモンセラ」が接岸されている北ふ頭に向かう。北ふ頭は「マニラ港の一番端っこのバースて、そのバースの一角をネグロナビゲーション社が専有している。QEUやその他の客船が接岸するバースは、これよりもう少し南に行ったところにある。北ふ頭まではタクシーて20分余り、料金は10ペソくらいである。我々を乗せたタクシーは、ごみごみとした市内を通り抜け、やがて倉庫や船会社のオフィスが並んでいる場所にさしかかる。ここまでくると、北ふ頭はもう一息てある。2、3分後に北ふ頭に到着する。「ドーニャモンセラ」は写真や絵葉書て見たよりも、どっしりとした中々の容姿である。船内ではもうすでにチェックインが始まっているらしく、我々の前を足ばやにアメリカ人らしき老夫婦が、ギャングウェーを登りかけている。

 さてここでちょっと遅れましたが今回の船旅のメンバーを紹介しておこう。先ず大阪の「不二家」に勤務しているY氏。Y氏は今年の四月に、QEUに乗船したばかりであり、他にもロッテルダム、プリンセンダム等々中々の乗船歴のある好人物(?)である。次いて名古屋の太平洋沿海フェリーに勤務しているK氏。K氏とは貨物船で2度ほど釜山に行ったこともあり、小生のよき船旅の相棒である。最後が大阪の日本信販に勤務のS氏。S氏は自称「乗物狂」と豪語しており、船も汽車も飛行機も大好きな男である。ちょうど作家の「阿川弘之氏」みたいなものである。でも文学的な能には、ちょっと類似性がないように思われる。これはちょっと言い過ぎたか。。。。さて以上私を含めた4人が、今回の船旅のカルテット達の面々である。私の独断では決められないが、いずれも回復不能と思われる船旅の重症患者で、当分結婚しない。(いやできないと言い変えた方がよいか)独身者達でもある。

 さてビューローでは、先ほど我々が見かけたアメリカ人の老夫婦がチェックインを終えようとしている。ビューローは、ギャングウェーを登り切ったフロア(Aデッキ)の中央部にあり、我々も彼らの後でチェックインを済ます。「ドーニャモンセラ」のクルー、オフィサーは全てフィリピーノであり、若干の女性も乗り組んでいる。ところで我々のキャビンは、プロムナードデッキの29号室と31号室である。両室ともバス、トイレ、ビデ(我々には不必要と思われる)付きのTWINベッドの部屋である。廊下、階段には粗悪ながらジュータンが敷かれている。でも天井が少し低いので気がかりである。キャビンで荷物を整理し、さっそくボートデッキに向かう。ボートデッキには、「にっぽん丸」程度のプールがついている。ただまだ出航前なのかプールには水が入っていない。プールサイドにはデッキチェアーが整然と並べられ、さすがに客船の趣がする。
 デッキから外をながめると、ぞくぞくとパッセンジャーが乗り込んでくる。ベンツで乗りつける人、フォルクスワーゲン、はたまたフィリッピンのおんぼろタクシーで乗りつける人まさに様々である。時刻は10時半ちょっと過ぎ、出港三十分前のはずなのにまだまだ乗船してくる人達が後を絶たない。確か切符には11時出港で、「1時間前にチェックインを済ますこと」と書いてあったはずなのに。。」11時を過ぎても相変らず船に乗り込んで来る。少し出港が遅れているのかなあと思いながら、ビューローに「ドーニャモンセラ」の出港時刻をたずねに行く。肩章が二本入っているフィリピーノのおっさんをつかまえて相も変らぬへたくそな英語で、出港時刻をたずねてみる。答え一発「AFTER AN HOUR」との返事である。そうすると出港するまでには、まだまだ時間がある為、取りあえずキャビンに引き返す。

 キャビンには、「PROGRAM OF THE DAYS」が置かれており、一読する。必然的にか昼食の箇所に目がいく。「PROGRAM OF THE DAYS」には、確かに昼食タイムが12時半と記載されている。又又おかしく思い、今度はビューローでパーサーらしき男をつかまえて、再度昼食タイムを確認する。ここでも答え一発「AFTER THIRTY MINUTES」である。私の時計は午後1時を示している。「ドーニャモンセラ」は港内を静かに進行中てある。港内の水はやっぱりうす汚れてきたない。三十分後、Aデッキの食堂に下りていく。食堂の入り口のドアーには「OPEN」の看板がかかげてあり続々とパッセンジャーが入っていく。我々のテーブルは、チェックイン後に窓際のテーブルを予約している。食堂のスペースは四千トンクラスの船ではまあまあであるが、テーブルとテーブルとの間隔がちょっと狭く、少しばかり窮屈な感じがする。ダイニングスチュワードは、ホテルマネージャーだけはドイツ人であり、他はすべてフィリピーノ達である。昼食のメニューはスープから始まりデザートに終るフルコースである。だがちょっと残念なのは、スープにしろ肉にしろチョイスできるのが少ない。もちろん魚もこれと同じである。魚と言ってもエビとカニぐらいしか出されないが。。しかし、1日1万円ちょっとの船代としては、中味のある食事である。「にっぽん丸」など少しこれを見ならって欲しいものである。

 我々パッセンジャーが昼食を終えるころには、「ドーニャモンセラ」はマニラ港を通り抜けセブ島に向けて順調に航海を続けている。セブ島まではマニラから一昼夜の航海であり、明日の午後には最初の訪問地のセブ島に到着します。昼食後は思い思いに時間を過ごす。午後になって「自称乗物狂」のS氏がマニラと日本との時差が一時間あるのに気づく。今ごろになってそうした誤差があることを知るなんて何たることや。K氏などガイドブックをごていねいに二冊も持ってきているのに、どこを見ておられるのか。K氏の勉強不足を痛切に感じる。でも船キチなどこんなものかもしれない。とにかくマニラ観光が目的ではなく、船に乗船したくてやってきた連中ばかりであるから。。。

 このことで、出港は1時間遅れではなく定刻に出港したことや、「PROGRA OF THE DAYS」の昼食タイムがが12時半になっていたことが、全て解決された。夕食は7時半である。ちょっと他の船に比べ遅い感じがする。本日はマニラ出港当日で、午後6時30分より、キャプテン主催のカクテルパーティーが予定されている。服装はフォーマルとのことで、フィリピン人が愛用している麻のシャツを着こんで出席する。カクテルパーティーは先ずパッセンジャーにシャンペンが配られそれに続いて、パッセンジャーが一同に集まったところで、クルーズスタッフにより船長から順番にオフィサーが紹介される。船長を含めてオフィサーは13名である。それにクルーが40〜50名くらい乗りくんでいるらしく、「ドーニャモンセラ」の乗組員は全部で60名前後である。パッセンジャーが160名くらいなので、乗客の割には乗組員の数が多いのに感心させられる。多分日本に比べはるかに人件費が安いせいだろう。それにロッテルダムやプリンセンダムが、アジア人を使用しているのがこのへんからもうなづける。
 さてカクテルパーティーは船長の歓迎のあいさつも終り、フィリピーノ生バンドがビートの効いた曲を演奏している。今回のクルーズには、キャプテンの奥さん(中国系?)もいっしょに乗船されており、中々のエンターテナーぶりである。彼女は小がらながらすばらしい歌唱力であり、日本で言えばさしずめ朱里エイコ的か、とにかく中々のショー・レディーである。
 パーティーの後は待望の夕食である。テーブルは昼食と同じ場所である。もちろんダイニング・スチュワードも同じ、我々の受け持っているスチュワードは、今年は低迷を続けている阪神タイガースの田淵選手にそっくりである。体つき、顔、形まったくそっくりで、彼を日本に連れて来て某テレビ局の「そっくりショー」にでも出演させたら優勝間違いない逸材である。さっそく我々は彼をMR田淵と命名する。彼にはちょっと悪いが日本の田淵選手のルーツはフィリピーノかもしれない。それにフィリピンの田淵君のダイニングサービスぶりも中々親切である。彼らは1人で3テーブル位を受け持っているらしく、食事中ひっきりなしにダイニングサービスを行なっている。メニューは昼食同様アペタイザーから始まりデザートて終る一応フルコースである。ディナーも昼食と同じで余りチェイスするものがないのが又又残念無念である。
 ドーニャモンセラは、他の客船と比べ、ディナーが始まるのが遅い為、だいたいディナーが終るのが9時ちょっと前である。それからグラン・サロンでショータイムが始まる。今夜はフィリピナダンス・カンパニーに所属している男女が、フィリピンの民族衣装をつけて、グラン・サロンのステージいっぱいに、すばらしい民族舞踊を披露してくれる。しかしこの中でも、日本人にはおなじみのバンブーダンスは圧巻そのものである。パッセンジャーもビートの効いた音楽とバンブーダンスに心を惹かれている。ショーの最後には、有志によるバンブーダンスのレッスンも開催され、S氏などそれに参加する。グラン・サロンでのショーの後は、ベランダバーでトニーによるフォークソング、ポピュラーが演奏され深夜1時までオープンしている。しかしパッセンジャー一人でもいれば1時間くらいはバーをクローズしないようである。彼らのサービス精神には又又敬服する。名古屋のO氏にこのことを聞かせたら、どんなに喜ぶことだろう。O氏とは1,2回ごいっしょしたことがあるが、船が動き始めると同時に飲み始め、航海中は毎日毎日飲酒運転しているほどの酒豪である。でもO氏には残念であるが、「ドーニャモンセラ」はフィリピンの内航船の為、アルコールのねだんはべらぼうに高い。何とブランデー、スコッチが8ペソから10ペソ(日本円で320円から400円もする)それにジンフィーズなど何と何と12ペソもするのである。内航船である為、酒税が免税になっていないからであろう。従って毎晩毎晩チェックで飲んでいると、下船時にかなりの精算書がくることは間違いない為、酒豪の方々にはここで忠告しておきます。

 翌日は昨晩の深酒が効いたのか7時半まで熟睡である。船内最初の朝はまあまあである。朝食は7時半から9時半までに取ればいいので、朝ねぼうの船旅の連中には好評か。でも東海市のK氏のように6時には必らず起床する人もあるので、必らずそう言い切れないかも。。。でも私は前者であることは言うまでもない。朝食はビュフェスタイルである。スクランブルエッグやべーコン新鮮なフルーツ等が前のテーブルに並べられパッセンジャーが各自思い思いに皿に取って食べる形式である。このビュフェスタイルは実に合理的であり、日本に来航する客船もこうしたやり方を取り入れたらどうだろうか。ただコーヒーや紅茶などの飲み物は、もちろんスチュワードがサービスしてくれる。
 朝食後には、クルーズディレクター主催の「ビンゴーゲーム」が予定されていたが、定員不足?で急拠取りやめになったもようである。パッセンジャーの大半は、船尾のプールに集まりフィリピンの強烈な太陽の下での日光浴に御執心のようである。いつも私は船旅をして感じるのだが、白人の日光浴に対する執着心には感心させられる。このへんがちょっと日本人とは感覚が違っている。もうプールサイドは、デッキチェアーに腰しかけている新婚さんのカップルや、老夫婦でいっぱいである。デッキチェアーなど、ひとつもあいていない。私も彼らにつられて、2、3時間日光浴とやらを楽しむ。さすがフィリピンの日ざしは日本とは異なり、強烈でたちまち私の柔肌は足といわず肩といわずまっ赤である。ちょうど「ゆでダコ」が鍋を飛び出して歩いているようなものである。こういう状態に陥いると時間をかけて冷ます以外方法はないと思われる。

 「ドーニャモンセラ」はセブ市に近づいてきたらしく、水深の浅い島と島との細い水路を航海中である。12時定刻通り「ドーニャモンセラ」はセブ港に入港する。セブ島はあのスペインのマゼランが、最初に到着した由緒ある島である。セブ島はマニラに比べ、フィリピン第二の都市と言えども、すこぶる田舎くささが残る町である。町をゆくタクシーの数も少ないし、人々の服装にも何んとなくマニラほどのあかぬけさがない。日本て言えば東京から名古屋にでも来たという感じである。セブ島での観光は、昨日船内てオプショナル・ツアーの切符を購入していた為、他のパッセンジャーと伴に、「セブ島ツアー」に参加する。フィリピンのビバリーヒルズやマゼラン記念碑等々を回るコースである。ツアーのガイド嬢は全て英語て案内する為、彼女の英語を理解するのに全精力を集中させる。風景など落ち着いて見ている余裕もなし。他の3人の先生方も英語力に関しては、私と同程度と思われ私と同じ心境だと思う。午後2時に出発したセブ島ツアーも午後6時に終り「ドーニャモンセラ」に到着する。

 セブ島での夕食は7時半からなので、ひと先ず諸先生方と別れ、キャビンにもどりシャワーを浴び、再びビューローに出向く。ビューローでは先ほどツアーのガイド嬢がさみしく(これは私の一方的見解であるが)立っているのでさっそく彼女の下に近づいて、デイトの申し込みをする。これ又「OK」の一発回答である。こうなれば後は、手と手を取り合ってセブの街へ消えていくだけである。だが幸が不幸かギャングウェーがら2,3分行きかけたところで、「未知との遭遇」に期待していた私に対し「K氏、S氏との遭遇」に出会い、ここまで順調に進んだ作戦は全てパーである。K氏など私と5年もつき合っているので、私の抜け駈ぐせを十分承知しているらしく、我々に向かって皮肉たっぷりに、「お二人でどちらまで」と話しかけてくる。私としては、こうなったら言うことはもう決まっている。君らがちょっと遅いのでちょっと探してきただけよと。。。これ又私一流のおとぼけである。それにつけても、K氏、S氏を今思って見ると実にいまいましい連中である。「船を出るのを後5分ずらしていたら。。」と今もって心措しく感じる。読者には私のせつないこの心境がわかってもらえると確心している。

 ところでカジノ船と言えばマニラ湾に浮かぶそれが有名であるが、セブ島にもりっぱなカジノ船がある。船名は不明であるが、大きさは5,6千トンはあろうかという代物である。若干の入場料を払いカジノ船に入って見ると人、人、人でいっぱいである。ギャンブラーは大半がフィリピーノで、カジノ独特の格調高いふん囲気は全く感じられない。ルーレットやブラックジャック等に混って、日本のサイコロみたいなものを2つ投げて、その目によって勝ち負けを決定するゲームもある。まさにフィリピンの「丁半ばくち」である。私も彼女とのアバンチュールをK氏、S氏にじゃまされたのがたたったか、あっという間に80ペソ負けてしまう。ここでも彼らは私に多大な心理的影響を与えているようである。従って早々にカジノを引き上げ、再び船にもどって夕食を取る。

 今夜の夕食のメニューは「LOBSTER TAIL WITH LEMON BUTTER SAUCE、 ROAST CHIKEN PLAF RICE、 ICE CREAM等である。LOBSTERはちょっと大味であまりうまくない。日本の方がずっとうまい。でもおねだんがずっと高いのが難である。「ドーニャモンセラ」のセブ島出港は午後9時、従って我々が食事中に出港している。夕食後には、グラン・サロンで、「ドーニャモンセラスタイル」の競馬が開催される。掛け金は1レース10ペソぐらい。続いてビールの早飲み競争(大ざらにビールを注ぎスプーンて飲みます)も開催され、我が同朋のS氏、ここで俄然ハッスルして優勝したそうである。只、後から若干のクレーム(彼の皿が小さかった)との事実が発覚したが、とにもかくにも優勝は優勝である。賞品としてサンミゲルのビール券を10枚もらったそうである。このあたりのところは、キャビンにてふて寝(いろいろな理由により)していた為、S氏の健闘ぶりはわからない。

 「ドーニャモンセラ」の3日目の朝も、前日に引き続き快晴である。相棒のK氏はもうすでにベッドから起き上がり、シャワーを浴びている。さすが私より2つ年上のせいか、少しばかり朝の目ざめも早いようである。「人間の起床時間は年齢に比例する」と言われているが、まさにその通りである。それでK氏はいつも私より早く目がさめるのだ。イロイロ市には、朝食後の午前9時に到着する。イロイロ市の入港歓迎は、セブ島でのひっそりとした入港風景とは違い、盛大そのものである。まさに町あげての歓迎である。地元の小中学生くらいの者たちのタイコによる演奏で始まり、続いて民族衣装を着けたフィリピン青年が岸壁いっぱいに勇壮な踊りを繰り広げてくれる。QEUが日本に処女航海した時にも負けず劣らずの入港歓迎式である。こうした心暖まる歓迎風景を見ていると、増々船キチが進行していく思いである。ここで一言、「船旅万歳」。果して日本でこの様な素晴しい歓迎がいつになったら見られることやら、そんなことをふと思う。
 イロイロ市ではオプショナル・ツアーに参加せず、4人で思い思いに町を散策する。イロイロ市は、フィリピン第3の都市である。セブ島に比べ、一段と田舎町である。それ故町ゆく人も何となくのんびりしている。さてイロイロ市では、S氏の1人舞台である。というのは先にも触れたように、S氏は船も大好きであるが、汽車もそれに劣らず大好きなのである。ここイロイロ島はフィリピンでも数少ない鉄道が存在している島なのである。現在フィリピンには、ルソン島とイロイロ島しか鉄道がなく、S氏は日本を出る前から、SL、SLと私に口走っていたようである。イロイロ島の鉄道は、イロイロ市とロハス市を南北に結んでおり、イロイロ市からロハス市までは、EXPRESSで5時間近くかかる。S氏は我々に「乗車しょう」とすすめるが、時間的な関係で乗車は断念する。しかしあの乗物狂のS氏、汽車にはまだまだ未練があるらしく、今度は乗車できないならば、写真でもと思ったのか町はずれの「汽車がぱっちり撮影できる場所」に、我々3人とも連れて行かれる。そこで汽車を待つこと30分余り、果たしてやって来た汽車は、SLではなく、ディーゼル特急!こんなことなら、先ほどのイロイロ駅で、写真でも撮って置いてもいっしょのことである。S氏これにもめげず、1人シャッターを押している。よくよくS氏の乗物狂には困ったものである。
 待望の汽車?を撮影後は、イロイロ市の市場に出かけてみる。さすがどこでも下町は人、人でごったがえしており、マニラ。セブに比べ、ここが一番物価が安いようである。我々もちょっとここで小間物を買って夕方近く船にもどる。
 今夜のディナーは、ちょっと趣きを変え、ホテルのショーを見ながらの食事である。船が港に停泊中に外で食事をするなんて、仲々いきなはからいである。ホテルでのショーは、先日船内で行なわれたショー以上に華麗で、すばらしいものであり我々パッセンジャーを十分に満足させてくれた。このショーの最後には、ショーガール,ショーマンが、ホールの中央に集って、各国の代表的な歌を披露してくれる。日本人の我々には、ちょっとありきたりと思われるが、「さくらさくら」を歌ってくれた。こうした彼らの心暖まるエンターティメントぶりに頭が下がる思いがする。船旅に関しては、日本はまだまだ後進国のようである。なにせクルーズできる船があの「にっぽん丸」1隻ではあまりにも海国日本としては、お粗末という以外表現しょうがない。この「にっぽん丸」もあと2,3年の寿命とか、新造船の計画が待たれる今日このごろである。
 さてショーの後は、Y氏を誘いイロイロの夜の町に出かける。もちろんS氏、K氏には内緒である。我々がその夜どこに行ったかは、今尚彼らは知らないはずである。船には12時ごろにもどる。「ドーニャモンセラ」のイロイロ出港はミッドナイトの午前3時。翌日には最後の訪問先である、シコゴン島に到着してしまう。今夜はY氏との夜遊びで疲れたのか、ベッドに入るなりすぐに寝こんてしまう。

 翌朝はもう船はシコゴン島沖に到着。この島へは、波止場がない為はしけで島に渡る。シコゴン島はフィリピンでも有数のリゾートの島で、エメラルド・グリーンの海と、スカイブルーの空と、グリーンの島々が一体となった地上の楽園である。もう気の早いパッセンジャーが朝食を早めに済ませ、はしけに乗りくんでいる。船から島へ渡るには、5分から10分くらいかかる。どのパッセンジャーも、はしけが島に到着するやいなや、ビーチの更衣室にかけこみ、水着に着換え、エメラルド・グリーンの美しい海に飛ぴこんでいく。私も水着に着換えひと泳ぎ。シコゴン島のビーチは、沖縄の海とは又違い、もう一歩南国的な感じがする。ひと泳ぎした後は、Y氏を誘って、フイリピーノスタイルのカヌーに乗ってみる。ここのカヌーは。両舷に竹の足が付いており、船の安定性を考えての設計であろう。レンタル料は1時間5ペソである。ちょっと高い感じもするが、日本の物価からすれば、ひじょうに安い。しかしカヌーを借りたのはよいがY氏との呼吸がどうもうまくおり合わず、船は自分の思った方向に進んでくれない。昨日の夜は、二人ともぴったりと息が合っていたのに。。。どうも夜のお遊びは一致するようである。
 シコゴンでの昼食は、ビーチでビュフェスタイルの食事である。これまたたいへん風情があって楽しい。テーブルの上にはカ二やチキン、魚と盛りたくさんに並べられていて、ひと泳ぎした後には食欲をさそうものばかりである。こうして船で食べて飲んで寝てといったことを繰り返していると、日本に帰って仕事するのが実にいやになる。わずか1週間くらいでそう思うのだから、2,3週間も休日をとってバカンスを楽しんでいる欧米人の心境はどんなものだろうか。とにかく仕事するのがいやになるのは事実であろう。
 午後からは、シコゴン島のクラブハウスに出かける。このクラブハウスは、カテッジ風のホテルを経営しており、新婚旅行などで来たらとって置きのところであろう。クラブハウスでは、午後4時まで過ごし帰船する。船にもどる時も渡った時と同様はしけであり、シコゴン島がだんだん遠ざかっていくのをはしけからながめつつ、昔の歌の「ラバウル小唄」を思い出し、「さーらーばシコゴンよ又来るまでは。。。」を歌いたくなるような心境である。それほど私にとって心に残る島であった。
 キャビンにもどってみると、私の日やけは昨日に増して赤化(悪化)したもようで、シャワーなど浴びていても、ひりひりとして耐えられない状態である。しかしながら食欲だけはあるとみえて、午後7時半に食堂に出かける。今夜は船内最後のディナーである為か、メニューの内容は豪華版である。前菜には、30センチもあろうと思われる伊勢えびが出される。貧乏性にできている私などすぐに日本でこのくらいのものを食べたらいくら取られるかと考えてしまう。それほどでっかい伊勢えびである。「今夜はちょっと気どってワインを!」と思い、フィリピン産の白ワインを注文する。味はちょっとすっぱくてうまくなかったが、日本のメルシャンワインを飲んでいるよりは、いささかましのようである。今夜は各自のテーブルに、「トリオロス・パンチェスとまではいかないまでもフィリピーノによる音楽までサービスしてくれる。日本の船では、とうてい考えられない演出である。QEUなど船賃の高い船に乗れば別であろうが。。「ドーニャモンセラ」は1日わずか1万円ちょっとの船である。ディナーも終りに近づき、MR田淵君にも我々のテーブルに入ってもらって記念撮影、そして彼に乗船してから今日までの彼の親切なサービスに対し、少額ながらチップを渡す。
 さて今夜の夕食後のショーの呼び物は、「クルーナイト」である。初日のキャプテン主催の「カクテルパーティー」と今夜の「クルーナィト」がどうもメインイベントである。「クルーナイト」では、我々は日本酒を二本持参し、パンセンジャーやオフィサーにさし入れる。日本酒二本ぐらいでは、焼け石に水で、パッセンジャー全員にいき渡るまでには、あと4,5本は必要であり、限られた人達しか日本酒を飲んでもらえなかったことは、いささか残念であった。「クルーナイト」とは、乗組員達のショーである。先ず彼らのトップバッターは、「ファッション・ショー」である。各自思い思いの民族衣装を付けた5人のクルーが出演し、誰がNo.1かをパッセンジャーに投票で決めさせる趣向である。パッセンジャーの中からは、終始爆笑やらため息がもれ、中々ナンセンスなファッションショーである。結局ミスシコゴンが名No.1に選ばれる。私の投票したミスロンプロンは残念ながら第三位。しかし5人ともいづれがあやめか、かきつばた的な美女である。続いてチャップリンの物真似や、フラダンス等が続々に実演され、グラン・サロンには1時間半笑いの連続である。このへんの彼らのエンターティメントぶりには又又頭がさがる。日本のクルーではこんな素晴しいショーの演出はとてもできっこないと思う。このあたりのショーの楽しさは是非「ドーニャモンセラ」に乗られて体験して下さい。やっぱり船旅の楽しさは自分が実際乗ってみないとわからないものだと思う。
 ショーの後はいつもの通りディスコタイム。ビートの効いたディスコミュージックが、グラン・サロンに響き渡っている。今夜の「ドーニャモンセラ」は最後の夜を楽しむ人達でいっぱいで、夜ふけまでなごやかさを忘れない。飲んだくれのフィリピーノにバーでもつかまったらもう最後、朝まで中々寝かせてくれないほどの話し好きの連中ばかりである。名古屋のO氏なら彼らとおつき合いできると思うが、私にはちょっと荷が重すぎる。それでもベッドにもぐり込んだのは午前1時を過ぎていたころである。翌朝は7時に起床し、最後の船内散歩を楽しむ。9時からは、船内最後のイベントである、「ブリッジ・ツアー」が実施される。「ドーニャモンセラ」のブリッジは、日本のフェリーの半分くらいの広さか、ただたいへんコンパクトにできている。オフィサーが我々に親切に説明してくれる。こうしている内に、「ドー二ャモンセラ」はマニラ港にだんだん近づいている。あと数時間もしたら我々の船旅も終えてしまうのか。やっぱり船旅の終りはいつもさみしいものである。だが私はいつも船旅の終りが、次の船旅の始まりだと思っている。
 最後に私の「ドーニャモンセラ」が、少しでもみなさんの船旅の参考になれば幸せだと思います。


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